母は変人

変人とタイトルを付けたが、面白おかしい変人ではないので、全くと言っていいほど笑いがないことを先に行っておきます。

たぶん、最初は平凡な、どちらかと言えば保守的な主婦だったはずなんだけど。幼稚園くらいの時、ちょっとだけ手芸が得意な普通の主婦だった記憶。たぶん。

それは私が小学校に入学して、2年生になった時から始まった。

その頃、ようやく世間で食品添加物について議論が起こり始めた。長いこと、発癌性物質やらを含んだ添加物が世間にまかりとおってきたのだが、そのことを世間に告発する人たちが現れて、あっという間に拡散された。小さな私たちでさえ、あのジュースにはたくさん人工着色料が使われているらしいよとか、あの炭酸ジュースに歯を漬けておくと溶けるらしい(これはデマ)とか、そんな話をした。

母はそんな時代に暮しの手帖という雑誌を買っていたのだが、ちょうどその雑誌にも食品添加物の記事が出ていたに違いない。突然、手作りのおやつを作り始めた(いやもしかしたら、添加物のことはこの雑誌が最初かもね)

うちはそんなに裕福ではない。が、父がどこで工面してきたのか、コンベックというものが何故かあった。いわゆるガスオーブンだ。母はそれでパンやクッキーを焼き始めた。それだけではない。アイスクリームやプリンなどのデザートも手作りし始めたのだ。

本棚には手作りのお菓子の本が増えた。が、おやつ生活充実!とはならなかった。母は正直、料理がそんなに上手な方ではなかった。母の手作りのお菓子は、私たち子供にも美味しくなかった。特にロールパンはバターの匂いがプンプンして、母が何回作っても進歩はせず、私は母の作ったロールパンを美味しいと思ったことはなかった。

しかし、近所のママ友の集まりがあると、母は得意のロールパンを抱えて参加し、皆に食べさせていた。皆の反応はもう忘れたけれど、たまたま私が遊びに行った友達の家に母がロールパンを持って先に来ていたりすると、外遊びに変更した。恥ずかしかったのだ。絶対にあれは美味しくないと私は思い込んでいたのだ。

そして、私たちのおやつは母の手作りのお菓子ばかり並ぶようになった。手作りのお菓子ばかり…というと聞こえはいいが、レパートリーは少なかった。100%オレンジジュースをゼラチンで固めたゼリー、牛乳ゼリー、紅茶ゼリー、コーヒーゼリー、マドレーヌ、プリン、アイスクリーム。これの繰り返しだ。マドレーヌも美味しくなくて、私はしばらくバターを使った洋菓子が嫌いになった。なんと贅沢な、と思うかもしれないが、私はこんな洋菓子よりも、友人の家に行くとオヤツで出てくるチョコレートやスナック菓子が食べたかった。

夏になると、アイスクリームのほかに、100%オレンジジュースを使ったアイスキャンディも登場した。アイスキャンディーを作る型があって、それに100%ジュースを注ぎ、冷凍庫で固めるだけだ。当然お砂糖味はない。ただすっぱいだけのアイスキャンディーで、しかもチューチュー吸うとジュースの美味しいところだけが吸われ、後には薄味の氷が残ってそれがさらにまずかった。

私と弟は、ここから母が家を出るまでの4年間、スーパーなどでお菓子を買ってもらえたことはほとんどなかった。ただ、何故かガムだけは買ってもらえた。私と弟はいろいろなガムを噛みまくった。今、昭和の懐かしいお菓子でガムが出てくると、私はそのほとんどを噛んだ記憶があるくらいだ。

母はある日突然、子供にいい映画やいい舞台やいい本を読ませよう、という活動をしている団体に入ってしまった。ちょうど、ドリフやデンセンマンが流行ってきた頃、果たしてそれが子供の教育にいいのか、ということが世の中の話題になりつつあった頃だ。私たちは、あまりテレビのバラエティ番組を観せてもらえなかった。唯一、ドリフは観てよかった。親もドリフを観て笑っていた。何故か「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」は観せてもらえず、私はクラスで同級生たちがデンセン音頭を踊りまくるのを、輪の外で黙って見ているしかなかった。

団体の名前は「ハハコシアター」(もちろん仮名)。ハハコシアターで母はのめり込むように活動をした。母は専業主婦だったのだが、ハハコシアターが主催する子供向けの演劇や映画のスタッフとして、熱心に働いていたし、当時の家から歩いて行けた距離のハハコシアターの小さな事務所にもほぼ毎日のように通い、何かと仕事を手伝っていた。







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