「好きなことがあること」について

物心がついた時から「ゲーム」は存在していて、特に小学生の頃、放課後の遊びといえば外でサッカーをするかゲームをするかだった。
ただ、ゲームは時に「悪者」としても存在していて、親からは「勉強しなさい」かもしくは「外で遊んできなさい」とばかり言われていた。そして「ゲームはするな」と言われていた。
勉強も外で遊ぶことも好きではなかった当時の僕は、漠然と「好きなことをしない」ことこそ正しいような、感覚があった。(とんでもない極論だが。)

なんにせよ、勉強をしとけば怒られることはなかったので、学校が終わってからのリソースと時間を「勉強すること」と「なにもしないこと」に割いていた。
勉強以外の何かをしていたら「勉強しろ」といわれそうだったから。

そこから時間が経ち、物心やそれなりの感性と知識がついた高校生頃に、あることに気づく。
「勉強だけしてる人間は面白くない」ということ。
特に社会人になると、「雑談」が意味を持った時間となる。そして次の仕事に直結する。
その雑談では、リトマス試験紙の話はしないし、山月記の話もしない。一緒に数学の問題を解かないし、世界史の知識をひけらかすこともない。

結果論だが、現在はゲームが仕事になるほど社会は変化している。ぼくが大学受験にあくせくしながら勉強ばかりしていた頃に、ギターの練習をしたり、ゲームをしたり、小説を書いたり、サッカーをしていた人は、大学生になるとより深い雑談をすることができ、それを仕事にしている人すらいる。
「勉強以外」を悪者と認識していなければ。
極端にそればかりとは言わなくても、それなりにいいバランスで楽しんでいたら、今ごろは…。と儚い幻想にしがみつく。

学校にいるときは頻繁にテストがあり、受験に合格するまで常に気を張っていた気がする。
例えば、次の日が仕事の休日が毎日続いているような感じだ。
明日の仕事のことを考えながら、思いっきり遊べる休日を過ごせないような。

自分より歳下の人がステージの上で活躍しているのを見ると、自分のこれまでの人生はなんだったのかと嫌気がさす。
自分が本当にやりたかったことを悪者として認識して、それなりに勉強をしてやり過ごしてきた二十数年を呪いたい。
(そして、そこまで賢くなれたわけでもない自分の脳みそも呪いたい)

好きなことがあり、それを好きということができ、そこに時間やリソースを費やすことができるのは、それだけで才能だ。

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