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世界一詳しい東海道歩き方ガイド2 品川宿~蒲田編

スマートフォンで確認しながら、東京日本橋から京都三条大橋までの江戸時代の東海道を歩けることを目的に作りました。緊急事態宣言も多くのところでは解除されました。自由に外を歩けるようになったら、是非この記事を見ながら東海道を歩いてください。

注意:歩きながらスマートフォンを注視するのは危険ですのでおやめください

東海道を歩くことからは学ぶところがたくさんあります。きっと皆さんのお仕事や人生に影響を及ぼすはずです。京都までは50回以上、すべての公開にはだいたい2~3年はかかると思います。しかし東海道を歩く人たちを応援するために、がんばって続きを作成します。

この記事は有料記事です。全文購読には250円かかります。日本橋から戸塚宿までは5本の記事で構成されますが、マガジンで5本を一括購読ならば1000円となります。未作成の記事は順次追加しますが、マガジンを購入された場合は追加料金はかかりません。

歩き始める前に

出発地 北品川駅(京急本線)
終了場所 京急蒲田駅(京急本線)
距離数 街道だけなら約7.7km 寄り道など含めて約13.5km

コースの特徴
 
最初の宿場品川、立場だった大森をはじめとして、かつての東海道の道幅が多く残る道を蒲田まで歩く。

進み方
 北品川駅から東海道へ → 鈴ヶ森交差点で国道15号(第一京浜)へ → 交番の左に伸びる細い道へ → 大森警察署前交差点で再び国道15号へ → 京急蒲田駅へ

画像1

地図は国土地理院webサイトのものを、浮世絵などは国立国会図書館デジタルコレクションのものを規約に従って使用。


02品川

最初の宿場、品川宿

01品川宿1

1 北品川駅
 京浜急行電鉄の駅。明治37年(1904)に品川駅として開業した。八ツ山橋の南にあったことから八ツ山停車場と通称されていたが、八ツ山橋の北にあった高輪停車場が大正13年(1924)にさらに北に移動して現在の品川駅になったのにともない、北品川駅と改称した。

【旧東海道への進み方】
 北品川駅に改札口は1つしかない。この改札口を出たら左へ進み、直近の踏切を渡る。そのまま直進して突き当たった道が旧東海道。

旧東海道への進み方

2 御殿山
 太田道灌が屋敷を構えていたという伝承があり、江戸時代には3代将軍徳川家光が別邸を構えた丘。この別邸は品川御殿と呼ばれていたが、元禄15年(1702)の火事で焼失した。8代将軍徳川吉宗は御殿山に桜を植えたことで、江戸の庶民の行楽地となった。もともとは東海寺(後述24を参照)の近くまでつづく丘だったが、幕末の台場建設の折に切り崩され、だいぶ縮小している。高杉晋作らが焼き討ちをかけた建設中の英国公使館もここにあった(下記5参照)。

3 問答河岸跡 (左側 獣医の前に碑)
 3代将軍徳川家光が船で品川に到着したとき、船着き場(河岸)まで迎えに来た東海寺の住職沢庵宗彭と家光が戯れに「海近くして東(遠)海寺とはこれいかに?」「大君にして将(小)軍というが如し」という問答をした場所と伝わる。沢庵は京都の大徳寺の住持も経験した高僧だが、紫衣事件により上山に流罪となり、3年後に赦されてからは家光の帰依を受け、家光が建立した東海寺の住職になった。その経緯については後述24を参照。

4 品川海岸の石垣跡 (左側 郵便局の2軒右隣のマンション)
 品川宿の東側は家屋1軒をはさんですぐに海(目黒川の河口部)だった。そのため海岸線沿いに護岸の石垣が組まれて土地を海の浸食から守っていた。しかし海の埋め立てが進んで海岸線は遠ざかり、東海道沿いに残っていた石垣も近年のマンション建設などで次々壊されてしまい、北品川に残っていた石垣もここ数年ですべて失われてしまった。郵便局の2軒右隣にも平成28年(2016)まで護岸の石垣が残っていたが、マンションの建設にともなって壊されてしまった。この場所の他にも、銅板張りの金物店の向かいと品海公園の隣の北品川には合計3箇所の護岸の石垣が残っていたが、いずれも同じ頃に壊されてしまった。

5 土蔵相模跡 (左側 ファミリーマート、表示あり)
 ここにあった旅籠「相模屋」は土蔵造りであったため「土蔵相模」と呼ばれていた。品川宿には「飯盛女」の名目で遊女を置いた「食売旅籠」が多く、土蔵相模もその一つである。幕末の文久2年(1863)には御殿山に建設中の英国公使館に焼き討ちをかけるため、高杉晋作ら長州藩士がこの土蔵相模に集合した(英国公使館焼き討ち事件)。映画「幕末太陽伝」の舞台ともなっている。跡地はコンビニになっている。

コラム1 遊郭化した品川宿
 品川宿は江戸からもっとも近い宿場であることから宿泊客が少なかった。そのため、旅籠では客寄せのために遊女を置くようになり、品川宿は次第に遊郭化していった。江戸時代、これら遊女のいる旅籠は「食売旅籠」と呼ばれ、遊女たちは「飯盛女」、つまり客の給仕をするという名目で黙認されていた。そして明治以降もこれらの旅籠は「貸座敷」と名を変えて存続し、戦後には一時期駐留米軍専用の慰安所となるなどしたが、昭和31年(1956)に成立し翌年施行された売春防止法によって全店が廃業した。江戸時代の東海道では、ほとんどの宿場には飯盛女がいた。

01品川宿2

6 品川宿
 東海道宿場制の始まった慶長6年(1601)に成立した東海道最初の宿場。北品川と南品川の2つの町からなり、後にその北に歩行新宿も追加された。江戸時代後期の天保14年(1843)ころの調査をもとに編纂された「東海道宿村大概帳」によると、問屋場が2箇所、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠が93軒とある大きな宿場だった。しかし江戸に近いこともあり宿泊客は少なく、そのため宿場経営を維持するために旅籠が飯盛女と呼ばれる遊女を置くようになり、品川宿は次第に遊郭化していった。

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