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勝ちの歴史〜太宰由起子さんに聞く〜

アルカスユース熊谷、ヘッドコーチ の菅原です。

以前「女子ラグビーの原点」という記事でご紹介した記事、動画ですが、

https://note.com/arukas_y_hc_2020/n/n87a2c792d6ac

その中にも登場していた太宰由起子さんにZoomでお話を伺うことができました。
日本の女子ラグビーの礎を築いた方との会話。
しかも、今までお話ししたこともお会いしたこともなかった太宰さんにZoomでお話を、という何とも不躾なお願いだと承知の上で、突撃してきました。

そんな緊張とは裏腹に、Zoomでのインタビューを快諾、お話し中も明るく優しく接してくださった太宰さん。
懐の深さを感じずにはいれませんでした。


1、太宰由起子さんご紹介


1991年第1回女子ラグビーワールドカップウェールズ大会、1994年第2回スコットランド大会メンバー。獲得キャップは2(日本ラグビー協会HPによる)。「月刊スキージャーナル」歴代初の女性編集長を歴任し、現在はフリーのディレクター、ライター、クリエイティブディレクターとしてマルチに活躍している。


2、ラグビーを始めたきっかけ


太宰さんのラグビーとの出会いは、当時お勤めだった出版社にラグビー同好会ができ、そのマネージャーとして誘われたことだったそうです。
そのラグビーの試合を見て、選手が男泣きをしている姿に感動し「自分もやってみたい」と感じ、太宰さんはラグビーの魅力に取り憑かれていきます。
やはり、性別関係なく、ラグビーには普遍の価値がありますね。


3、太宰さんから見た「今」


「現在の女子ラグビーをご覧になって」というテーマで質問をしました。
太宰さんから最初に返ってきた回答が、
「ちゃんと各チームに素晴らしい指導者がいて羨ましい。」
というものでした。
この時点で私は、今回の依頼は大成功だと感じました。
第1回ワールドカップ時は、コーチはもちろん、メディカルスタッフも帯同できず、本当に選手だけでの参加だったそうです。
ツアーコンダクターの方が、たまたまラグビー経験者だったということで、そのかたが臨時コーチを務めてその場を凌いだという、大変興味深いお話も伺えました。
当時は遠征費も個人持ちです。
各選手が、本業の仕事の他にもアルバイトをされていたとか。
中には、日本代表であるにも関わらず、お金の関係で遠征に参加できなかった選手もいらしゃったそうです。
現在の「当たり前」は、決してそうでなかった時代があったことを、改めて痛感しました。
「当たり前のことを当たり前と思わず、感謝しよう」などと口軽く言われることも多い昨今ですが、やはり当事者の生の声は、聞かなければわからない迫力がありました。


4、敵は男子だけではない


約30年前の日本。
太宰さんも動画の中でおっしゃっていましたが「女は可愛くて若くて、ちょっと仕事やって、結婚してやめていくというのが当時の男の人の理想」という社会でした。
何となく想像できますし、ひょっとしたら今もこうした価値観は根強く残っているのかもしれません。
ラグビーをする女性は、好奇の目で見られました。
しかし、その好奇の目は、同じ女性からも向けられたそうです。
その珍しさから、取材に訪れた女性が、女子ラグビー選手たちを面白おかしく取り上げ、記事にしたそうです。
「ここにも敵がいたか」
と、太宰さんは当時を振り返り、笑いながらおっしゃっていました。
笑顔の裏に隠された当時の苦悩を、私なりに垣間見た瞬間でした。


5、第1回ワールドカップ


様々な困難を乗り越え、ウェールズで開催された第1回ワールドカップに出場した太宰さんら女子ラグビー日本代表。
以前の記事でもご紹介した通り、この当時のチームは日本ラグビー協会の傘下ではありませんでしたので、ウェアに桜のエンブレムをつけられませんでした。
しかし、周囲の出場国の多くはラグビー協会傘下。
男子代表チームと同じユニフォームを着用しています。
「それがめちゃくちゃ羨ましかった。」
と太宰さんは語ります。
そのワールドカップでの出来事。
前述のツアーコンダクター、臨時コーチの方が試合後、太宰さんら選手に、
「お前たちは歴史を作ったんだ。」
とおっしゃったそうです。
本当にその通りだと感じました。
まさに、現在のサクラフィフティーンの原風景です。
当時の太宰さんには、そんな自覚は全くなかったようですが。
ただその時、ひたすらに「今」を生きたから、これが本当に歴史になった。
改めて、日本女子ラグビーの「今」に、私なりに想いを馳せた瞬間でした。


6、それでも戦い続けた訳

こうした困難の中、どうして諦めなかったのか。
それは、
「ただただラグビーが好きだったから」。
シンプルですが、これ以上ない言葉だと思います。


7、岸田則子さんという人

日本ラグビー協会女子委員会前委員長の岸田則子さん。
第1回ワールドカップに選手兼団長、第2回大会に団長として参加された方です。
岸田さんは、英語がものすごくご堪能だったそうです。
しかしそれだけでなく、太宰さんが本当に感心なさっていたのは、岸田さんの精神力、行動力、そして意地。
「岸田さんがいなかったら、私たちはワールドカップに出られなかった。」
太宰さんはそうもおっしゃっていました。
メールなどのテクノロジーも発達していなかったであろう当時、一体どうやって海外の関係者とやりとりをしていたのか。
面白く思っていない面々もいたはずです。
こうした社会、人からの反発を跳ね除けた岸田さん。
「結局(女子ラグビーが)なくなってしまえば、負けたことになる。存続させるために続けてきたのは、やはり負けたくなかったから。男でも女でもなく、こういうスポーツが好きな女性もいることを社会的に認めて欲しかった」。
岸田さんは動画の中でこうおっしゃいます。
まさに意地。
岸田さんにも是非お話を伺いたいと感じました。


8、最後に


太宰さん、岸田さんはじめ、現在の日本女子ラグビーの礎を築かれた方々。
それはすなわち「勝ちの歴史」です。
本当に様々な戦いがあったと推察します。
当時の方々は、その戦いにことごとく勝ってきたのです。
彼女たちがその時の「今」に全力で立ち向かい、勝ち続けた。
だから火が絶えなかった。
だから「今」が残った。

太宰さんの支えは、応援してくれる身近な方々、そしてチームメイト、関係者たちだったそうです。
全力だったからいつも仲間がいた。
だから戦い続けられた、勝ち続けられた。

私たちが決して忘れてはならない「戦い」だと、改めて感じました。

インタビューを快く引き受けてくださった太宰さん。
穏やかなお人柄で、どんどんお話に引き込まれていきました。
私にとって、本当に光栄な、貴重な、有意義な時間でした。
本当にありがとうございます。
今後とも、何卒よろしくお願いいたします。


本日もお読みいただき、ありがとうございます。


ARUKAS YOUTH KUMAGAYA ヘッドコーチ 菅原悠佑


ありがとうございます。今後ともアルカスユース熊谷をよろしくお願いいましたす♪