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「春原さんのうた」と高橋久美子さんと私をめぐる偶然について

昨日「春原さんのうた」という映画を観てから、これまでの私に訪れた幸福な偶然の重なりについてどうしても書きたくなり、思い切ってnoteに書き綴ってみることにしました。自己満足でしかない文章ですが、どなたか読んでくださる方がいたら嬉しいです。「春原さんのうた」をまだ観てない方は、ひょっとしたらネタバレも含まれる可能性があるので、それを踏まえた上で読んでいただければと思います。

「春原さんのうた」を一言で言い表すならば、荒木知佳さん演じるさっちゃんの愛する人を失った哀しみからの再生の物語と言えるだろう。そしてその物語は、まさしく去年最愛の人を失った哀しみからようやく再生しつつある私に響かないはずがなかった。「春原さんのうた」では、さっちゃんが愛する人をどのように失ったのか、どんな人だったのか、さっちゃん自身が話すシーンは全くなく、観る人それぞれの想像にまかされている。その空白が私にはやけに心地よく、どこまでも深い想像の旅に連れて行ってくれた。

2021年4月、私は最愛の恋人を失った。亡くしたわけではない。きっと今も生きている、と信じている。これまでのことを書き始める前に、私がどんな人物なのか軽い自己紹介をすると、25歳の現在無職で、2021年10月末まで新卒で入った小さな出版社で少女漫画の編集をしていた。していたといっても、新人だったのと、会社も色々と複雑な状況だったので、はっきりと編集の仕事をしていたと言えるのは1年ほどだっただろうか。最愛の彼と初めて出会ったのは、会社が一番複雑な状況を迎えていた2019年11月。出会ったその日に告白するほど誰かに強く惹かれたのは初めてのことだった。私のあまりの勢いに押され、当初は狼狽えていた彼からも、ほどなくして告白を返してもらう形でお付き合いが始まった。そこから1年と少しという短い間ではあったけれど、仕事がどんなにつらくても、毎週末彼と過ごす時間だけは何もかも忘れるほどに楽しかった。私は彼という一点の光があったから、2021年4月までどうにか仕事を続けてこられたのだと思う。

彼から別れを告げられたのは、本当に突然のことだった。その頃の私は、思い返すと苦々しい気持ちしか残らないような、彼に依存するばかりのどうしようもない人間だった。その頃彼も色々と余裕のない状況だったのに、私は私のことしか考えられていなかった。その時は別れを受け入れられず、彼の前で泣き続けて必死に説得に走ってしまったけれど、今となってはあれは必然の別れだったと思っている。説得の結果、彼からは「俺の気持ちはもう変わらないと思うけど、10月になったらもう一度話し合おう」という返事をもらった。具体的な日にちまで決めた。私は彼ともう一度付き合えるように、その時までに仕事を頑張ってカッコいい女性になっていようと決心した。それから仕事がもうどうにもできなくなった7月末までの記憶はほとんどない。

7月末、プツンと仕事が手につかなくなる瞬間があった。今も鮮明に思い出せる。少女漫画の編集の仕事は、私にとって中学生の頃からの夢だった。私はもう夢だった仕事もできないし、彼と付き合う資格もなくなったのだと絶望した。彼にもその旨を連絡した。彼と連絡を取るのは、別れてから初めてのことだった。彼は心配してその週末家まで会いに来てくれて、たくさん話を聞いてくれたけれど、結局その日正式に別れることになった。その日から彼とは会っていない。

それから10月末まで、休職したり、違う人と恋をしたり、復職したり、やっぱり退職したりと本当に色々あった。先のことなんて何にも考えられる状況になかったけれど、仕事柄たくさん残業代をもらっていたおかげか、とりあえずしばらく生活していけるほどの貯金はあったため、ゆっくりこれからのことを考えることにした。辞めて数日は清々しい解放感に浸っていたけれど、しだいに考えても考えても次にやりたいことが何にも見えてこない自分への苛立ちや失望でいっぱいになっていった。だんだんと外にさえ出られなくなり、ご飯もろくに食べられなくなり、眠れなくなり、「私は何のために生きているのか」「夢も最愛の人も失った今、私が生きている意味ってあるのだろうか」ということしか考えられなくなっていった。今までの人生の中でも一番苦しい時期だったかもしれない。そんな中、私をどうにか生かしてくれていたのは、10代の頃から特に好んで聴いているスピッツやチャットモンチー、フジファブリック、YUKIさん、星野源さん、小沢健二さんの音楽、君島大空さんが時々真夜中に突発的に始めるインスタライブ、折坂悠太さんの新しいアルバム、坂口恭平さんの画集やツイート、イ・ランさんのエッセイ、そして何よりも周りの大切な人たちの存在だった。私のことを大切に思ってくれている人たちがいることすら忘れかけるほど、孤独で長い夜は何日も続いた。それでも少しずつ思い出すことができ、11月16日にようやく夜は明けた。長い夜が明けた朝、スピッツの「優しいあの子」を何度も何度も聴きながら、コンビニで買ってきたパンを一生懸命食べた。大好きなドラマ「カルテット」の「泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きていけます」というセリフを思い出しながら、生きていくぞ!という気持ちで気合いで食べ切った。

前置きがかなり長くなってしまったけれど、その日から「春原さんのうた」と高橋久美子さんと私の幸福な偶然の重なり始める。私が一方的に感じているだけだけれど。11月15日の夜、小学校の頃からの親友と長いLINEのやり取りをして、「もう大丈夫かもしれない」と思い、なんとなく明日から旅に出てみようと思った。ただ、行きたいところはたくさんあるはずなのに、どこに行けばいいかが全く分からなかった。ふと、フジファブリックの志村正彦さんが山梨の富士吉田市出身だったのを思い出し、今の自分が行くにはそこがぴったりな気がした。宿泊するゲストハウスの予約だけして、あとはどうにでもなれという気持ちで翌朝旅に出た。

旅ではたくさんの出会いがあった。ゲストハウスのオーナーさんたち、居酒屋で出会った気のいいおっちゃんたち、お父さんにどことなく似ていた喫茶店のマスター、面白い写真家のおじいちゃん、かわいい白鳥の写真を見せてくれたギャルのお姉さん、昨日産まれたという孫の写真を見せてくれたおじいちゃん。パッと思い出せるだけでも多くの優しい方々に出会えた。それまでいっちょ前にプライドが高く、人に頼るということがとても苦手だったけれど、死の淵からはい上がってきたような私にとって、そんなことはもうどうだってよくなった。分からないことは素直に聞く、甘えていい時は甘える。そうすると不思議とみんな優しくしてくれる。その旅で学んだのは、そういう簡単なようで今までの私にとってはひどく難しいことだった。人の他にも、多くの雄大な自然に出会うことができた。特に私の心に響いたのは、よく晴れた日に見た河口湖の景色だった。河口湖の周りをゆっくりと歩きながら、小沢健二「ある光」「アルペジオ」と折坂悠太「ユンスル」の3曲を何度も繰り返し聴いた。その2時間あまりのことを、私は生涯忘れないと思う。生きていて良かった、と心の底から思えた瞬間だった。

「春原さんのうた」ではさっちゃんがおじさんとバイクで河口湖に行くシーンがある。彼女たちが見ていた河口湖の景色と、私があの日見た河口湖の景色は、季節も天気も違うものだったけれど、私にとっては同じように見えた。私はあの瞬間を経て、本当に大丈夫になった。さっちゃんも帰り際同じことを言っていて、私は涙が止まらなくなってしまった。この映画を今この瞬間に観れたことは偶然であり、運命であると思った。「春原さんのうた」という映画の存在を知ることができたのは、去年の年末に観た「偶然と想像」に感銘を受け、映画にまつわるありとあらゆる情報を調べまくったからだ。「偶然と想像」を観ようと思ったのは、私の夜明け前夜にLINEでやりとりしていた親友が勧めてくれた「ドライブ・マイ・カー」が非常に素晴らしく、同じ監督の映画なら観るしかない!と思ったからだ。ただ、「春原さんのうた」は本当は来週にでも観ようかと思っていたのだけれど、少し早めて観たのは「春原さんのうた」の監督・杉田協士さんが、私が小学校の頃からの大ファンの高橋久美子さんと対談されている記事を見つけたからだ。記事を読んで、2人はかなり前から交友関係があったことを知り、これはすぐにでも観なければ!と思った。

高橋さんは、今は作家をはじめとして実に様々な活動をされているけれど、私が初めて知ったのはチャットモンチーのドラムとしてだった。ファンの人なら知っていると思うけれど、チャットモンチーは3人全員が作詞をする、ちょっと珍しいバンドだった。私は小5で知ってから今の今まで、ずっとチャットモンチーの曲に支えられてきたが、特に好きだったのは高橋さんが作詞した曲が多かった。高橋さんがチャットモンチーを脱退されてからも、私は高橋さんの詩が好きで、活動をよくチェックしていた。高校生の時に高橋さんが画家の白井ゆみ枝さんとやられている詩と絵画の作品プロジェクト(この表現が合っているか不安だ)「ヒトノユメ」の作品展が長野県上田市で開催された時には、ツイッターで出会ったチャットモンチー好きの同い年の子と2人で見に行った。当時新潟県の高校生だった私たちにとって、2人きりで他県に行くというのは、ちょっとした冒険だったし、私のパッとしなかった高校生活の中でもその思い出は今も燦然と輝き続けている。その子が偶然同じ市内に住んでいたのも運命だったと私は思っている。

富士吉田市を出発点とする旅から帰ってきた私は、「ヒトノユメ」が8年ぶりに長野県上田市で開催されることを知った。これも偶然だが、運命な気がした。私はすぐに8年前一緒に行ったあの子に連絡を取った。トントンと話が決まり、現地で落ち合おうということになった。彼女は地元に残り、私は東京で暮らしているので、滅多に会えはしないけれど、今でも時々会ってお茶をしたり、何かのライブに一緒に行く関係がずっと続いている。せっかく行くなら高橋さんに会いたいと思い、会場で高橋さんと白井さんのライブが開催される日を目がけて行った。当日、高橋さんと白井さんと少しお話しすることができた。8年前も高橋さんとは一瞬お話ししたのだけれど、緊張しすぎてどうにもうまく話せず、悔いばかりが残った。今回はいろんな気持ちを以前よりはちゃんと伝えられた気がしている。

「ヒトノユメ」ライブでの高橋さんの詩の朗読は凄まじく、気がつけば私の目からはボロボロと涙がこぼれていた。この数年間の苦しかったことがすべて浄化されていくようだった。言葉の力ってすごい、と思った。もっともっと芸術に触れたいと思った。私はまだ何にも知らないし、知るまでは死ねないと思った。その日を境に、以前より格段に読む本の量が増え、足繁く映画館や美術館に通うようになった。「ドライブ・マイ・カー」もその一つだ。コロナの影響もあって海外にはなかなか行きづらいが、長野に行く前後で国内のいろんな場所へ何度か旅にも出た。多くの面白い人たち、息を呑むような壮大な景色、素晴らしい芸術に出会い、それまで「この先絶望しかないじゃないか」と思っていた社会に、少しずつ希望めいたものが見出せてきた気がする。死んでる暇なんかない、時間が足りない!という気持ちだ。こんな気持ちが芽生えたのは生まれて初めてのことだ。

そうして私も「春原さんのうた」のさっちゃんのように少しずつ再生しつつある。再生というか、新生という言葉の方が今の私には合っているかもしれない。希望が見えてきたら、働きたくなってきた。生活のために働かなくてはという気持ちも多少はあるものの、仕事でしかなかなか出会えないような面白い偶然に出会いたいという気持ちの方が強いかもしれない。私は叶うならば、今また本を作りたい。この世界で生きる誰かの苦しみを少しでもやわらげるような、そんな本が作ってみたい。そんなわけで今、少しずつ転職活動を初めてみているところだ。人生は長い。これだけ前向きな気持ちも、またある日突然へし折られてしまうこともきっとあるだろう。でも今の私なら、何度でも新しく生まれ変われると信じている。今、これからの人生が楽しみで仕方がない。こんな気持ちにさせてくれるような多くの幸福な偶然をありがとう、高橋久美子さん、「春原さんのうた」、「偶然と想像」、その他今まで出会ってきたすべての人やものたち。つたない文章ではありますが、もしここまで読んでくださった方がいたらとても嬉しく思います。