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七夕心中

 色々と尻尾は出ているものの、こっそり破滅的な暮らしをしております。騙し騙しなんとか総崩れを回避しているつもりではあるのですが、生きている家族というのはお互いに支え合う気があってもなかなかままならないものです。

 生きていない家族からもまた影響はありますが、生きていないぶん生きている側の捉えよう次第かも知れません。

この文章はだらだらと46年を振り返るだけの内容です。きっと誰も読まないでしょう。

これまたどうでも良い事なのですが、私は七月七日たなばた生まれ、因んだような名前を付けられて育ちました。今でこそありふれた名前ですが昭和50年代の山あいのご年配者には基本的に歓迎されない名前でした。はっきり名乗っても聞き返されるし、色々な書面は一字違いの〝よくある名前〟になっている事ばかり。そもそも苗字からして誤表記される頻度が高く、氏名を間違いなく書いて貰える事の方が少なかった気がする程でした。あげくに「名前は可愛いのにね」と嗤われては立つ瀬がありません。

名前をぞんざいに扱われ、ついでに容姿を嘲られて育つとどうなるでしょうか?子供の名前は可愛いだけでは駄目ですね。まあ私は持ち前の図々しさと親族の愛情が幸いして致命傷には至りませんでした。

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虫送りというのは害虫の障りを村外れまで送り出そうという初夏の旧習だったそうです。つまり過疎の山あいの集落のさらに外れが生家の所在でした。ガス・水道のみならず電気もなく、電線は私が生まれてから町村に掛け合ってやっと通して貰ったそうです。(もしかして面倒な住民?最後までガスはボンベ、水は井戸ポンプ。)

虫送りには9歳まで居ました。ひと山当てようと脱サラで飛び込んだ父の酪農ビジネスは敢えなく頓挫。土壁の古民家を修繕した家とお別れしました。最低限の生活用品を積んだ車で虫送りを出て、長野諏訪の母の実家へ母・私・弟は身を寄せることに。父は東京に仕事を探しに行きました。祖父母と2年一緒に暮らしました。そのころ母から「お父さんと別れたら苗字が宮坂になるからね」と言われ、割とその気でおりました。結局、宮坂姓にはならなかったのですが愛着があります。

小学校最後の一年半は東京の世田谷線沿線の小さな家で暮らしました。世田谷駅、宮の坂駅、松蔭神社前駅、若林駅あたりが馴染みありました。近くの公立小中学校に通い、高校も歩いて行ける近所の都立高校を卒業しました。12歳ころ新聞の『明るい悩み相談室』を読んで「新聞に不真面目な事が書いてある!」とひっくり返り中島らもさんに強い印象を受けました。中2の夏休み、近所の古本屋で『遠い海からきたCOO』が目に入り、景山民夫さんに憧れました。中学を卒業した春休みからアルバイトを始め、下北沢で中島らもさんのお芝居を観るのが最高の娯楽になりました。高校2年の時、クラスが同じになった子で江戸っ子女子が居ました。江戸っ子というのは家系的なもので、彼女は落ち着いて物静かな人です。なんだか分からないまま「熊ちゃんは絶対好きだと思うから」と杉浦日向子さんの漫画を次々渡され、確かにどんどん杉浦日向子さんの世界にのめり込みました。そうすると今度は「落語行こうよ」と手を引かれるままに落語会へ足を伸ばすようになりました。落語会には景山民夫さんの本に出て来た立川談志という人がいました。「ここにテポドンが落ちりゃいいんだ!」初めの頃は不機嫌そうでよく分からない人だと思いました。

『落語のピン』というテレビ番組の収録をする会が深川江戸資料館であり、かなり頻繁に行くようになりました。江戸っ子の彼女が授業で行かれない日は1人で行くようになり、『落語のピン』以外の会場にも潜り込むようになりました。深夜・早朝寄席、下丸子、奇兵隊、背伸びしたサンケイホールやスパイラルホール。はじめは週刊ぴあを睨んでいたのが東京かわら版を買うようになりました。とっかかりは新潟さん。深夜早朝寄席の延長で寄席に味をしめるように。右朝さん、志ん五さん、喜多八さん、円歌さん、円菊さん…

中島らもさんのお芝居に桂吉朝さんが出られていて吉朝さんの落語を拝聴したら素晴らしくて、上方の落語も気になるように。高校を卒業してアルバイトに励み、夏の終わりに大阪独り暮らしを始めました。日払いのビルメンテナンス会社でアルバイト採用。面接担当の専務さんにはその後なにかとお世話になりました。「なんで大阪なん?」「中島らもさんの事務局があるし上方の落語を聴いてみたかったので」「ほーん、俺も落語好きで運転中やらよう聴くで。東京の落語では誰が好きやったん?」「三遊亭新潟さんです」「⁈」専務からは在阪中まる2年間〝新潟〟と呼ばれ続けましたが、東京出身の奥様のお食事をたびたびご馳走になりました。

環状線桃谷と鶴橋の間くらいに光熱水道込み洗濯場&管理人つきで22000円というめぞん一刻のようなアパートを見つけました。ただし響子さんと接点は無いビリケンさんにパンチパーマのカツラを被せたようなルックスのダウナー系マダムでしたが。大阪では桂あやめさん関係の会にちょこちょこ行ったり、旭堂南左衛門さんの講談を間近で拝する会があったり、一心寺、太融寺界隈の怪談イベントに行ったり色々エキサイティングでした。大阪暮らしが一年半経つ頃、阪神淡路大震災が起きました。その日は京都寄りの茨木あたりにあるアルバイト仲間の家に泊まっていました。アパートの取り次ぎ電話には私の親から何度も掛かってきたそうです。親不孝をしました。

1.17の地震でレトロなアパートの壁に大きな亀裂が入り、建て替えが決まりました。大家のお爺さんにどうするか訊かれましたが建て替えが始まる迄には東京に戻ることにしました。

東京に戻って間もなく、一歳半下の18歳の弟が急性骨髄性白血病を発症しました。発見が遅れました。反抗期のように部屋に閉じ籠り「放っておいてくれ!」と怒鳴るのをいぶかしく思いながら2〜3日が過ぎ、両親も私も仕事で不在ながら弟が階下に来たり食事をした形跡がない事にやっと気づいて、父が慌ててドアを蹴破りました。弟はもともと細いのが更にげっそりし、黄疸のような状態で横たわっていたそうです。私の留守中でしたが父が抱えて病院に連れて行き即入院。父から電話があり「和室を片付けておいてくれ」と指示されました。「駄目かも知れない」と。

しかし、なんとか持ち堪え、入退院を繰り返しながら弟は成人を迎え、お弁当屋さんのアルバイトに励むまでになりました。

弟の快癒を喜ぶ一方で、弟を死の淵に立たせてしまった悔恨から父が心を病んでしまいました。睡眠障害が悪化し、仕事中のミスが続いてしまった後ろめたさで仕事をやめてしまいました。この時、どう接したら良かったのか。かかりつけ医とは別にメンタルケアの専門家を尋ねるべきだったでしょうか。母と私と弟は父を気遣うつもりで「仕方ないよ、しばらくゆっくりしたら?」と声をかけました。父は本当に欲しかったのは「お父さんが頑張ってくれなきゃ私たち困るの!だからお願い、新しい仕事探して!」という懇願だったのではないでしょうか。家長として頼られなくなった絶望のためか、父は自ら命を断ちました。

父が亡くなったことで家庭内では慢性的にカラ元気のチキンレース状態が始まりました。母は看護士副士長としても多忙ななか電子カルテなどシステム移行に際し慣れないパソコン操作に悪戦苦闘し、ただでさえ短い睡眠時間も削られる生活が続きました。母のパソコン設置をお願いした縁から趣味の社会人サークルで数年一緒に活動をしてきた方と結婚しました。優しくて真面目であちらも早くにお父さんが亡くなっているので苦労を分かちあえると思いました。翌年に長男が生まれました。結婚してから臨月までは夫から月5万円を受け取り、生活費と検診費に充てました。不勉強だったので扶養に入るタイミングを逃し貯金から健康保健と年金の支払いもしていました。長男を出産した病院のベッドが不足と言われ退院が繰上げとなり、通常は退院日に支払う出産費は後日請求書の送付時に変更されました。しばらくして請求書が届いたので夫に祝金から取り置いた40万円を託し、支払いに出かけるのを見送りました。しばらくして病院から督促状が届きました。何かの間違いでは?と思いながら夫に確認すると「払っていない」との答え。ではすぐ支払いを、と頼むと「お金はもう無い」との事。両家親族からの結婚と出産の祝金を車や通信教材の繰上げ返済に充ててしまったと言われました。夫がまともな金銭感覚でない事実を目の当たりにし、血の気が引きました。ちゃんとした会社に15年勤めているだけに考えもしない展開で、深刻すぎて実の母にも向こうのお義母さんにも言えませんでした。出産費未納が発覚した月から5万円の生活費も渡されなくなりました。自分の所持金から出産費を払い、出産補助金などの手続きをし、働き始めるまでの遣り繰りに追われました。6カ月児になると預かってくれる保育園があるので、1円も無駄にせずそこまで繋ぐのに必死でした。6カ月になったその日から自転車で自宅・保育園・仕事場の往復が始まりました。母は私の体を心配すると同時に初孫の長男を大変可愛がってくれました。無理して働き始めたのではないかと「これは今まで手がかからなかったあなたのぶん」と子供時代に遡ったお小遣いを渡され、断る余裕もなく受け取っていました。長男の1歳を私の母が手作りのちらし寿司と出前でお寿司だらけで祝ってくれました。会うたびに「困ったことは無い?」「大丈夫だよ」を繰り返していました。でも、大丈夫じゃないのは母の体の方でした。私が働き始める少し前から癌が見つかっていて仕事と治療の合間の体調の良い時に長男と私の顔を見に来ていたのでした。1歳のお祝いを過ぎてから入退院の事後報告が入るように。日程がはっきりしないから、と入退院を伏せて来た母から秋口に「いま病院にいます」という便りがあり慌てて駆けつけると「ごめんね、退屈しちゃって」と笑っていたが、この頃から笑顔が力なくなり痛みが強くなっていたのだと思う。11月に入って暫くして定期検診で病院に行き、検査を待っている間に昏倒したと弟から連絡が入った。2週間の昏睡で力を使ってしまい最後に何か言いたい事があったかも分からないまま母は逝きました。十代までは「女の子らしくしなさい」とだいぶ言われたけど、大阪から戻ってからは「自分の自由にしなさい。幸せになって。」と言われ〝幸せ〟という響きがなんだか大袈裟で気恥ずかしかった。母にとっての幸せはどうだったか。東京暮らしでの父との関係に幸せがあったとは思えないぶん、看護士の仕事に打ち込むことで前を向いていた印象がある。可愛い孫に会えて嬉しい、と言っていたのが本心からだったと思いたい。次男を懐妊している事は伝えられなかった。母の幸いは、弟が元気な姿を最後に見ていたこと。

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東日本大震災の後の5月、弟の彼女から「救急車を呼んで下さい」と涙声で電話が入る。どうも18歳の頃と同じ事をしたらしい。また閉じ籠って土偶のように転がっていたらしい。進歩が無かった。ドアを蹴破り抱えて病院に走った父はもう居ない。でもヤケにもなりたくなった事だろう。「5年以内に再発しなければ再発しないらしいよ」と弟から聞いたことがあった。あれから10年。再発はもう無いと思っていたのにまた血液癌。再発なのか新たな発症なのか巫山戯るなと呪うばかりだった。弟は退院した。また入院し退院した。夏の終わりに高熱を出し、以前のようなコミニュケーションがとれなくなった。何か別な人物のような挙動が大部分を占めていた。弟の友達が言うには「ガンダムの世界にいると思います」とのことだった。なんでわざわざ戦争の世界にいるのだろうか。稀に我に返った様子の時は泣いていた。懸命に動かそうとしてもままならない口に、籍を入れた彼女と私で耳を寄せ、こちらも懸命に聞き取った。「しにたい、ころして」

「そんなこと言わないでよ、ばか‼︎」彼女が泣きながら怒ったのがわかったようで「ごめん」と言って涙を浮かべていた。私が耳にした弟の会話らしい会話はそれが最後だと思う。彼女は病室で弟の好きなブルーハーツをかけるようになった。12月29日の午後、彼女から急いで来て欲しいと電話があった。「今日は呼吸が安定しなくて」夕方からたびたび荒い呼吸を繰り返し、深夜に近づいてきた。彼女が「もういいよ、いっぱい頑張ってくれたのに、無理言ってごめんね」「やっぱりやだ、行かないで」何度も休ませてあげたい、でもまだ居て欲しい、と言葉を繰り返していたけど、日付けが変わる少し前に、弟は呼吸を止めました。また見送ってしまった。耳鳴りだか機械音だか分からない音に苛まれていて気が付かなかったけれど、その時流れていたのは『情熱の薔薇』だったらしい。二人の思い出の歌だったらしい。姉から見てもガサツさが殆どない内気で物静かで優しい弟でした。彼女の前では『情熱の薔薇』を歌うような弾けた面があったのなら嬉しい。

生きている家族はと言うと、長男18歳と次男16歳。ありがとう、君たちがいて、たくさん慌てたり笑わせたり怒らせたりしてくれたおかげで「死神」「家族の運気を全部吸い取った長女」と囁かれても日常に追われて生きて来れました。10月11月12月と沈むこともあるけれど、必ず浮上できました。

夫殿、次男出生4ヶ月頃に急に生活費を渡して来るようになりました。何があったのか。おそらく会社の人にポロッと喋ってフルボッコにあったのでは。よい会社にお勤めしていたのに早期退職してから早や3年目の52歳…。再就職まじめにさがして下さい。ムーミンパパ通り越してモランみたいな体型になりかかっているの本当によろしく無い。食べたら動いて下さい。

コロナ禍で仕事が減りつつ長男の私学高校の学費に追われた令和二年度をようやく脱する目処が立った頃、四半世紀ぶりくらいに鈴本演芸場に行きました。右朝さんも志ん五さんも喜多八さんも円歌さんも円菊さんも居られない。吉朝さんも談志さんも左談次さんも亡くなってしまった。どこに誰を聴きに行ったら良いか分からないよ、と思いながら、それなら新潟さんのお顔を見に行こうかと足を運んだ鈴本でした。

全体として相当楽しい番組でした。ぶっちぎりで気になったのは青森さんの佇まいと作品。四半世紀ぶりで情報がうまく見つからない繋がらない。青森さんの動画なのに青森さんが映ってないとかなんなん?そのよく分からない動画で目に入ってきた気になる人物が一人。所在なさげな視線、かわった名前、洋装着道楽?ことごとく都合が合わないなかやっと初めて拝した高座は「この年齢でこんなに繊細で頼りなくて大丈夫⁈」とはらはらしましたが会場にいたテレビ撮影のせいかもと思い日を改めました。初回と違う噺で『悋気の独楽』は声とよく合っていてお見事でした。定吉、おかみさん、お妾さん、みなそれぞれの可愛らしさが滲み出て、また噺家さん自身の楽しんでいる雰囲気や朗らかで柔らかい声質が心地よく。ふと「この噺家さんがお爺ちゃんになっても高座でにこにこしているのを見てみたい」と思いついてしまいました。知らぬが仏。なんでそんな事を考えてしまったのか。その噺家さんは36歳だそうで、私が見たいと思い立ったのは30年ちょっと先の様子?でもこちらの方が十も上だから見られない確率が高いのでは?私その時まで生きているのか?生きていても高座の上のその人を認識できないのでは?見上げていた幾人もの師匠方が彼岸に渡られた事を何度も悲しんでは来たけれど、目の前の噺家さんの総仕上げの頃に自分は立ち会えないのかと悲しくなるなんて、自分で驚いてしまいました。

当代三木助さんの『死神』で「役割を終えたら命が終わるんだ」というような表現があって「そうかも知れない」「そんな訳ない」という相反する気持ちがぐるぐる回って涙が出てしまいました。

私の役割とは? 役割があっても無くても順番はもう来てしまうかも知れない。

とりあえず10年生きたらこの文章は「馬鹿なこと書いていたな」と笑いながら削除したい。その前にシステムの変更で読めなくなっているかも知れない。

もしごく近いうちに順番が来てしまったら、これは遺書もどき程度になるでしょうか。そうはならないように、せいぜい足掻いてしぶとく元気でありたいです。