見出し画像

ぽんぽこ

マガジンでお知らせした以外、 言葉にする気持ちにならなかった
引っ越しのせまり。 今朝になって、 いまのこの流れ、起きていること
自分へと 書き残したくなった。

住まいの斜め向いにある空き地でビルの建設工事が始まり
始まってすぐ、 閉め切った窓からも入りこむ、 なにかの物質で
化学物質アレルギーのあるわたしの皮膚や目や鼻は、 間髪いれずに
反応を起こし しばらくは、 工事の様子を見てどうするかを考えようと
思っていたのが 工事が始まって2日目で、 引っ越しを決めた。
音もすごくて、 部屋でのセッション難しくなり、 選択肢はなかった。

そうしたら今度は正面向かいのマンションで、 工事が始まる。
ベランダに出ると、 ほとんど間のない距離に マンションの壁がある
日光はその壁にさえぎられ 洗濯なかなか乾かないということはあっても
壁が外からの視覚的な覆いとなることで、 部屋のなかもカーテン閉めず
はだかでうろうろできるくらい 何も思わず自由に過ごすのがあたりまえに
なっていて そうしてビルの壁のすきまから空を見るのも 空がそのつど
特別に見え、 それがしみじみの、 刻々の味わいになっていた

それが、 先の工事で 早朝空気を入れ替える以外、 一日窓を閉めっぱなし
でいたのが これからは部屋のカーテンも、 閉める必要が生じるのなら
ああほんとう、 これはもう、 引っ越し先が決まったとはいえ あと少しの
暮らしとはいえ 小さい頃から引っ越し続きで 関西から西、 あちこち
渡り住んできたなかで、 わたしはいまの住まいと暮らし、 どこよりも
いつよりも、 これ以上ない楽園みたい、 思っていたから 急な転出、
その理由を日々つきつけられるたびに 切なさに、 ぐえっとなった。

工事は朝8時から夕方6時 そのあいだは外に出るようになってから
それまで早起きなかなかできないでいたのが 目覚ましが鳴る前に
こと最近は、 5時台に目が覚めるようになり 早起きは三文の徳という言葉
確かにと実感するよう、 いちにちの時間が 体感も実質も、 できることが
豊かに増えて、 その機会をくれた、 工事に感謝くらいの思いでいたけど

空気の入れ替えの必要と 朝起きたとき、 工事の音が鳴り響いているのが
いやなこともあって始めた早起き それが、 今朝は悲しくも 6時頃から
工事の音が鳴り響くのを、 ごごごと耳にし 自分のなかで ふだん感じる
ことのない、 ぼうっとしたものが、 もうっと胸に立ち上がるのに、 ひいいとなった。 これはいけないと その憤怒の思い、 ホ・オポノポノする。

思えば工事が始まって していたことは 引っ越しのもろもろながら
同時にそのどのときも、 ひたすら意識していたことは ホ・オポノポノで
このひと月 ひたすらにこの言葉 声に出さず唱え続けてた

それもあってか 急な変化も さきの切なさ以外は たんたんとすべきこと
集中していられたけど 時間外から始まった、 ごごごの工事の音を聞き
自分の内に沈めていたものが ぼうっと憤りの感覚として 自覚にあがる

それは その憤り、 とさかにくる、 そのわななきは
そのふたつの工事というより もう一筋向こうで始まった工事にあって
近くの小学校の向い、 大きなビルが建っていたのが そのビルがこれから
解体されたあと、 今度は31階かなんかのビルが、 新たに建設されるのを
現場に貼り付けられた計画書で確認をしたとき、 言葉を失った その塊で

この国は 行政 社会は なんでこんなに こどもを見ていないのか
こどもを思わないのか こどもを見ない 思わないということは
それは 未来を見ない 未来を思わないということで

一帯の立地からしても 場違いな異様さを思う、 高層ビルの建設 
それがしかも小学校の真向かいで、 3年にわたって行われるという
その小学校は、 小さいながらも、 運動場もあれば、 体育館もあり
工事で排出される塵や何かの物質、 伴う匂い こどもたちは学校にいる
あいだじゅう、 それを呼吸することになるのを思うと 向かいの工事も
わたしが過敏で 弱すぎるだけかもしれない 他の部屋のひとは、 誰も
引っ越しの様子ない そうでいても そうであっても なんでそんな
こどもたち それは入り込む空気だけじゃなく 解体と建築の音だって
これからのもろもろを思うと ちょっとそれは あまりにもと

高層ビルの建築を決めた全て またそうしたのを許す全て そもそもの
こどもたちへの配慮や慮りや支援の思い なぜこんなにも希薄であるのか
そもそもの こどもへの大人としての責任を なんでほとんど思うことなく
自分たちの目の前のみの必要に、 没頭ができるのか

そうした自分の胸の奥、 ぐるぐる渦をまいてたものが 今朝にぶわっと
怒りとなって 自覚化されて ホ・オポノポノせなとなる

わたしは自分の内に、 強い怒りを感じること 一年で一度あるかないかで
だから今朝のその、 ぼうっと、もうっとした怒りの表出には、 驚いたけど
その瞬間クリーニングしたことで その怒りはすっと、 違う自覚認識になる

わたしのその怒りは 責任の思いから来ていた
それをクリーニングし ゼロにもどし 正しさの覆いを持ち込まないで
いま起きているものを 内にまっすぐ見たときに わかったことは
ぽんぽこだった

はじめてぽんぽこをみたとき それから四日間は、 涙が出続けた
これまでに観た映画のなかで、 最大の衝撃作品は
あとにも、 きっとこのさきにも 平成狸合戦ぽんぽこ に思う
なのに今日までわたしは それを、 人間側で見ての衝撃であったと気づいた


はじめて 狸の気持ちがわかった

都市の開発で 追いやられ そこに住み続けることできなくなる

そのときあるのは 無念さでも 悲しみでも 憎しみでもなかった

それは、 あきらめともちがう 受け入れだった


受け入れる

受け入れる

受け入れる


それは、 抵抗しないとかいう意味でもない
ぽんぽこたちは それでいくと 大抵抗のへんげをみせた


受け入れる

それはあきらめではない
それは選べるということ


受け入れたとき
選ぶことができる


今回の急な変化は
選べなかったのではなく
選んだことで 道が続いた

生き物は 生きようとしている
どのときも 生きるほうをみている


人工的なものの広がりで 人以外の生き物 生きる場を失うこと
狸にきつねに鹿に熊 辺野古の海、 魚にジュゴン 万博予定地に渡る水鳥も
ひたすら、 申し訳ない 心苦しさに こころ白目となる、 圧倒を思うけど

彼らは 生き物は そうしたものを憎むより 絶望を思うより そのなかで
生きるほうを見て 生きようと 生きる道をみつけて 生きようとする

その一歩をうみだすものは 怒りでも、 憎しみでも、 恨みでもない
生きることへの 尊さからで

もしもあのとき 誕生日の日 奇跡が起こらず 新しい住まい、 借りること
ができないで いまのところにいつづける以外の選択肢がなかったとしても
(わたしには、 社会的にわたしを証明するもの何もない。 普通に部屋を借
りること、 わたしはできない生きかたをしているのに 今回なぜか、
なんの証明も、 その画策も必要なしに 審査が通る、 奇跡があった。)

今朝に得た ぽんぽこの感覚
これをもって、 わたしをあるなら かならずに 道はつづく
それを自分に、 未来を生きる、 こどもたちに思った。

こどもたちへのおもいのなさと
住まい周辺 解体と建築工事の嵐なこと
そのとまどい 消えたわけではないけれど
これからも、 その困惑、 立ち上がることきっとあっても

そのなかで そのうえで 生きるほうを見る 見つづける
その集中のために また今日からも ホ・オポノポノを続けながら
工事への 自分をふくめた大人への ジャッジを手放す

経済よりも 真逆に思う、 開発による 「発展」 よりも そうした
抗いようがないよう見える、 絶対的な 無意識による 流れと現れ
その破壊的なありかたを ジャッジしない

そのなかにいる こども 生き物 申し訳なさを思う以上に
彼らのまっすぐの、 その意思を そのちからを 何よりものその確かさを
祈り 信じる。 それは無責任でなく 狸としてのわたしから わたしを見
てわかる、 そのわたしへの信頼 それが 自分ができることであることを

狸としてのわたしと、 それを見るわたし こども 生き物 植物 地球
その双方をつなぐもの そこからうまれる責任こそ、 それは全体へと渡る
確かな希望、 可能性をうみだすちからになることを 生きぬくそのちから
それは消えるものではない 全体をいかし続けるその意思を 見つづける。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?