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女性としてのプレッシャーから降りることができるのは
年齢でも体の状態でも環境の変化でもないよう思う

女性であることのプレッシャーを自分に課すことを
いつやめるか

課さないというよりも 課していない状態から自分をある
そうしたら しぜんと軽やか、 自由になる

こんななにひとつのしがらみもないでいるわたしが言ってもで
家族に仕事、 たくさんのひととの密な関わりのなかにいて
なににも無頓着でいるなんて、 現実的ではないのかもしれない
そうなのかは、 わたしはわからない それはみんな自分が決める

プラカードを持って歩いていると 存在をすっと打ち消す透明化が
ひとの目のなかで起きるのを、 たびたび感じる
そうなるとわたしは、 いるけどいないものとされるラベルを
キョンシーがぴしっと額にお札をはられるみたいに受け取って
否定以外のあらゆる型から自由になるのを、 ふわっと感じる

自意識にもし悩んでいるひとがいたら
わたしの鬼おすすめは、 街なかをプラカード持って歩くこと
そうすると 始めてすぐの5分くらいは、 急激な自意識の上昇を
自分に感じるかもしれないけれど それでもどんどん歩いていたら
今度は急激に自意識が薄らいで 自分が透明人間になったのを
なんの努力もなく感じることができる

そのときの自由には 性も含まれる。
それすら消えた それでも残る自分というのは
それは人間でもないような境地へも ゆけてしまう
残るものは 自分でなく 思い
その思いだけが、 はっきりとわかる

それは 個としてのものというより 境界をもたない空気は
日々瞬間、 温度や匂い、 違うよう その場におうじて移り変わる
あるもの全体と呼応した、 反映、 反応として、 思いへ結晶化するみたい

歩くたび 自分の中からこんぺいとうのようなものが、
ひとつころっとうまれるのを それを毎日観察しては 味わうように
もうそのときに 自分という個はそこに 味わうほうにいるぶんに
そのかたまりは 自分がうみだしたものには思えなくて

それが苦かったり、 冷たかったりするときは
なんともいえない、 気持ちになるけど
かたまりをそう感じるのも、 そう自分が世界を味わっているからで
一方なんてことは存在はしないのを 日々確かめる


自分がいないように思えると ぱあっとひらけた自由を感じる
(海外を旅するときに感じる自由は、 その効果があると思う)
その自由は、 ひとからの、 自分という存在の打ち消しによるものなとき
そこに自分はいないものとする、 その打ち消しは 存在の透明化は
それは、 なにも求められるものがないということ

存在を打ち消すまではしなくても 何かを求めることなしに
ただそのひとであることを、 ただわかるなら
自分に求められるものがないことを そのひとはそのひとにわかるとき
きっとそのときそのひとは 目の前のそのひとを ただそのひととして
見ることが できるかもしれない

髪に服 どんなかっこうでいても
家庭でも 恋人といても 職場でも どこにいても


モクセイにゆくと、 お店の入り口、 ミモザの花がかざられていた。

女性に、 自分に、 課している 型に気づく日に
女として自分に課している その型から自由になる日に
あらゆる型を持ち込まない、 強いない 社会に


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