見出し画像

残るもの

生きてきて、 本ほど共時性を感じるものはない

図書館で借りてから、 読むの後回しになっていた
梨木香歩さん 『海うそ』
返却日に間に合うようにと、 年の暮に読み始め
年が明けた日 北陸で地震が起きる

主人公のそばで目に耳にした、 島での体験が
蜃気楼のように いまに重なる

九州の離島が舞台の物語
ひたすらのフィールドワーク 浮かび上がる島の記憶
鮮やかにまばゆい生命 野生のやぎが闊歩し栄える、
歩けば広大な島で 島に暮らすひとの存在が、 深い自然の闇夜に灯る
小さくも、 心強い燈のように ぽっと浮き立つ

修験道の霊山があったとされるその島に刻まれた、 時代の傷跡
神仏習合を経て、 神仏分離へ
政府の号令に乗じるようにまきおこる、 廃仏毀釈

過ぎゆく時間と、 破壊と、 循環
主人公 (秋野) の纏う、 重たく形のない霧に射し込む、 山と海からの光
旅のあいだ探し求めた問いの答えは すでにそのときからいま、
わからないまま ずっとわかっていたことをわかる。

色即是空   空即是色

ゆきつく答え それが表題となった 『海うそ』
海うそは、 その島の沖合からたちのぼる、 蜃気楼を意味する

ほとんどが平屋ばかりの島で、 二階建てのお家に暮らす山根さん
僧侶から還俗された山根さんのお父上が そこに家を建てられた。
修行僧時代、 そこから見る海うそが、 彼にとって、 何よりも喜びだった。

その話を聞いてから、 50年後 再びその島を訪れた秋野氏は
二階屋の跡地である、 変わり果てたその場所で 海からの幻影を
土地の開発に携わる息子さんとふたりで目にすることになる。

元日の発震から数日後、 「強制移住」 という言葉が
SNSでトレンドに上がるのを見て、 何かの極まりを感じる

そこにいてくれるひとがいることの意味
そこにいてくれるひとを いらないものとするような
それは無知からか 心のなさからかはわからない その上から目線の提案は
それを言葉にするひとは それを救済に よいことであるとの思いから
きっとそこにはほんとうに 悪意はなくて 残酷さの自覚はなくて

その邪気がない、 心からよいこととして仕事をする 主人公の息子さん
その彼を、 主人公は 息子とはいえ全く違う文脈に生きている人間なのだと
その彼は 自身の人生へのありかたの反映であることに 秋野氏は目眩する

いいでも、 悪いでもない
ただそのひとりひとりの認識、 生き方、 ありかたが
土を削り 木を倒し 海を汚して 生き物を絶滅へと向かわせる
そうしてもなお 地球は命を再生させて その地を新たに蘇らせる

破壊の限りがつくされた大阪の 変わり果てた姿を ゴミだらけの道に見る
白線がなくなってしまった道路は もうそれが、 あたりまえのものとなり
そこだけはいつだって楽園だったはずの靭公園は、 悲劇のまま荒廃し
木は日々容赦無く切られては引き抜かれ 自宅近くの公園は 壮絶な伐採後
開けたグラウンドだけがそのまま残り 周りは蝋燭がぬかれたケーキみたい
こんなさっぱりした場所だったかと、 記憶との不協和がいまも生じる

それを 破壊を 変化を ただわたしは見ているだけで
島の破壊を前にした秋野氏の悔恨を、 同じ重みをもって感じるまでじゃない
責任の持ち切らなさを、 隠れ蓑にして

大阪限らず、 環境限らず、 社会に限らず 何よりは、 ひとの視点と言葉の
異常な木々の伐採以上の変化を 眼球に砂つぶてがあたるように感じては
思考とこころが停止して、 見てはいられないと、 目をつぶる

そうした目を疑うそのすべて、 それは自分の意識とありかたの反映なのだと
目をつぶればわけられるものじゃない、 砂粒は自分がうみだしているのだと
ぎざぎざの痛みにあふれる破壊と変化 それを受け入れ生きようとする命に
どう謝ればいいのか、 わからなく  ただいまは、 これ以上はを強く思い

そのためにも  そうじゃない、 破壊じゃない、 変化のためにも
起きた変化を、 ジャッジしない。

このいまも またいつかの大阪も いつかの日本も 比較じゃなしに
地球の時間、 そのどのときもにある 目には見えない、 命を生かす脈動に
敬意と、 感謝 そのうえでの 自身の責務を自覚して
いまを いまを、 いまを、 わたしを  わたしを、 いまに


急激な島の変化 それを起こす人間は またいま、 起きていることは
そのどのときも その底に、 渦をまきつつ滞留する 暗い澱みと光がある


「十界、 とは、 地獄界とか飢餓界とか ••••••」

「そう、 生きて在るそのことがそのまま苦しみとなる、 憤りや恨み、
怒りに囚われて獄にあるような状況、 それが地獄界。 どんなに貪っても
満ち足りるということを知らない。 充たされることのない欲求に生きる
苦しさ、 執着、 固執から離れられない、 それが飢餓界。 強いものに媚び
諂い、 弱いものには見向きもしないばかりか、 これを食らって糧とする、
自分に益をもたらすものにしか興味を持てない、 己の保身のみしか考えな
い畜生界。他者と競い他者に優越したいという欲求に身のうちを貫かて、
嫉み、妬み、 僻みで身動きの取れない修羅界 ••••••」

(省略)

「人界。 これは真に人間らしい、 理性を保とうとし、 真理を尊ぶ境涯で
す。 試行錯誤のなかでもより良い生き方を志向する。 天界は、 生きる喜
び、 満たされた瞬間に感じるような、 幸福の絶頂、 人間としては一度は
味わいたい境地だね。 しかしまあ、 一瞬のもの、 空しいものだが 」

(省略)

「ここまでが六道輪廻。 地獄から天界まで、 大抵の人間はどこかの境涯に
いて、 ぐるぐる巡りもすれば、 そこから抜け出せないでもいるわけだ。
修行者は、 そこから意識的に抜け出ようとしている人びとです。 次の、
声聞、 縁覚、 菩薩、 仏は彼らの目指す四聖。 声聞界とは、いうなれば、
学問に勤しんで自分を向上させていこうという。 縁覚界は、 自分の行いの
なかで、 まあ、 創造的なことでも、 学問的なことでもいいんだが、 それを
通して宇宙の法、 絶対真理の輝きを垣間見、 無我の境地に至る、 というよ
うなことかな。 菩薩界は、 ひたすら他者の救済のために手を差し伸べる、
そして仏界は、 仏そのものになり切った境涯、 といえばいいか。
宇宙真理、 宇宙生命と合一した 」

(省略)

「 … 確かに、 その人間が普段属する世界が地獄界、 飢餓界、 という
ことはあるにしても。 他の世界にも開かれている存在なのだ、 人間は」

梨木香歩著 『海うそ』 141頁~143頁

noteに本のリンクをはろうと、 出版元のページを開いたら
この作品は、 東日本大震災後、 喪失をテーマに書き上げられたことを知る
能登の震災 そしてガザのいまが地続きであるように感じていたとき
本にある言葉が そのつかめない霧の奥にあるつながりを 照らし出す

山根さんが言っていた 砂漠の中に忽然と現れる城壁 海に浮かぶその幻を
50年後に秋野氏は 同じ場所で見る。

海うそ。これだけは確かに、昔のままに在った。かなうものなら、その
「変わらなさ」 にとりすがって、 思うさま声を上げて泣きたい思いに駆ら
れた。 同時に、 山根氏が昔呟いたことばを思い出した。
ー 父は、 ここから、 海うそを見るのが何よりの喜びだった。

梨木香歩著 『海うそ』 190頁

海うその話を聞く前の晩 廃仏毀釈について語る山根さんの言葉に
またときと場所をこえる

「ほんとうはふたごとして生まれてくるべき二人が、 体の一部をくっつけ
て生まれてくることが、 ごくたまにある。 皮膚だけの問題なら簡単な手術
ですむが、 臓器を共有していたりすると、 完全な分離は不可能になる。
そういう二人を、 無理に分離するようなことになれば、 どちらかが犠牲に
ならざるを得ないだろう。 日本の土壌での、 神仏分離とは、 そういうもの
だったのです」

梨木香歩著 『海うそ』 61頁


破壊と犠牲による変化 どこからそれをストップするか

すべてのひとが そこからになるちからを持っている

そのちからは そこにあるちからから もたらされる

つながりあう事実を もう見ないふり 感じないふりをしない

そのひとの痛みを 自分のお腹で感じる
そのあたりまえの真実を その痛みは自分のものであることを

それを互いに見あうとき ときも時代も、 場所もこえる。

なくならない永遠が ここにある。 いまにある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?