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怒り

しつこいくらい、 書いたり話してきた、 五輪の開会式の意図
先日のフランスでの開会式も、 わたしは一秒も見てないけれど
どんな内容だったかは、 ツイッターで流し見た

そこでの意図もそうであるけど
式の前後には 強い悪意の働きかけがある

悪意の発露は ひとを通して行われる

ガラスの仮面 マヤが舞台で食べた泥まんじゅうみないなのが
雪合戦みたい 前後左右から飛び交いあう

東京五輪の開会式前は、 雪玉にこめられた鋭く強い攻撃性
いっせいに対象とされるひとにぶつけられるのを見て 悲しかった


いまさっき、 見てはいけないような 記事を見た

見てはいけないとは あってはいけない表現であり
ただでさえ 信じがたい状況が いまだお正月の日から続いているのに
ひどすぎる ありえないことすぎる

こころのなさを 前面にひけらかすことが 強さなのだろうか

それは強い弱いよりも  小ささにしか思えない

小池さんも、 広島の詐欺師も 蓮舫さんをここぞとばかりに叩くひとも
自分の小ささをわざわざ自ら表明するよう、 デジタルタトゥーどころでない
自分の顔や身体に消えない傷を刻み込むように 自分が発する言葉によって
取り返しのつかない跡を あえて残しているように そう思えた

小さいと思う それはわたしのジャッジなら
馳浩に尋常じゃない小ささを見るのは そう感じるところの元には
彼に弱さを思う さらなるわたしのジャッジがある

強さを示そうとするひとのその芯には弱さがあるのを 何度も政治家に見た
報道の仕事をしてたとき、 政治家を取材するたびひそかに彼らのオーラを
読んではそのたび ああとなった

なんでそこまでおびえることがあるのかと思う
けどそのおびえはきっと その理由は政治家という下剋上にいるからじゃ
ない (なかには世襲などにより、 安定安寧なひとももちろんいるけど)

確かなものは 内にしかない

その内にしかないものがわからないとき それはどんな職種であっても
どんな地位にあっても どれだけの収入や、 生活の安定があったとしても
自分の内に常にある、 確かなものを 自分に見いだせないとき

その何よりもの確かなものを、 自分に感じられないことによって
真に頼れるもののなさから生じる 不安や恐れを それを弱さとして
自分に見ないよう ひとに気づかれないようするために
表面上では、 いくら強さをデモンストレーションしたとしても
(自分の強さを証明するために 弱いとされる(する)ものを、 彼らは引
き合いのために必要とする) 内にあるはずの真の強さは、 そこにまったく
ないぶんに 不思議なほどみな同じ感じに その顔、 のぺっと、 凍ったよ
うに見えるのだろう

悪意のはなしが 自分が悪口を書いている
いけない いけない


でも さっき見た、 馳浩の発言は どうにもとさかにきてしまった

いまだ避難状態におられるたくさんのひとの大変と、 その胸中を思うと
悪口をこうしてひっそり書き込むんでなく
わたしは、 ほんとうに 怒らないといけない
怒らないこと 怒りを感じないことが あたりまえになりすぎている

怒っていないくせに みんなも 怒って欲しいと思ってしまう

ガザでこれほどまでの残虐行為が平然と行われているのに
その加害国が、 平和の祭典と呼ばれる五輪に、 参加を許されている
広島の平和式典へのイスラエルの出席も 大切な祈りの場 そこに混ざる
ものを思えば それはあまりにも 認めてはいけないことに思う

怒っても止められないのと 怒らないまま止まらないのとでは
その意味、 ぜんぜんに違う

怒らないと。 怒って欲しい。  国内も 世界のひとも
ぜんぜん怒りが足りていない 怒りたらなくさせるのは無関心であることを
石川の復興の遅さを、 どうにもできない思いで見ている、 自分にわかる

怒りだけでは変えられなくても
怒りがあって、 変えられるものもある

いまわきあがる 馳浩への怒り
この怒りを わたしはわたしにジャッジしない
あえてこの怒りを 自分の内にもち続ける


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