artypo

/*   */

artypo

/*   */

最近の記事

ショットグラスに指輪を落とすような光景に出くわしたことはあるだろうか。

ショットグラスに指輪を落とすような光景に出くわしたことはあるだろうか。例えばバーのカウンターで男女が二人席を並べて座っており、男はお酒の入った泡立つショットグラスに指にはめていた指輪を静かに落とし泡のゆらめきとともに、グラスの底に指輪が落ちていく。 実際にそんな光景に突然出会ってしまったら「だっさ、えっ、なに?」て、こゝろの中で爆笑か疑問符か、あるいは未知の価値観への好奇心を与えられるに違いない。もはやコントでしか見たことがない様な出来事でも、やはり実例となる誰かの経験がも

    • 『ちはやふる -結び-』 に寄せて

      松岡正剛『遊行の博物学』で “文字の表情” において「いろは」には魔力がある。その魔力を作ったのが空海で、これを浄化のきわみに書き示したのが良寛だった。良寛の書が示すひとつの絶巓である。 (中略) 「伊」(伊勢) からはじまって「京」(京都) に終わる “文字の道中” をそこに覗いたように、「いろは」にいくばくかの構想をこめてみるのも悪くないような気がする。仮名こそ日本文化史の謎である。空海の『三教指帰』に登場する仮名乞児とは、誰だったのだろうか。と語っている。 さて、

      • “ネバーランド” 小学生の頃から高校生になって間もない頃まで、豆電球と電池が冒険をする漫画をノートに描いていた。

        小学生の頃から高校生になって間もない頃まで、豆電球と電池が冒険をする漫画をノートに描いていた。その頃、なぜノートに漫画を描きはじめたかというと、当時「エスパークス」というノートなのだけれども、その中では普通にノートとして使える部分と、漫画が描かれている部分が独特なコマ割りで散りばめられている画期的な文房具に出会ったからです。その漫画付きノートに合わせて、鉛筆、消しゴムや缶ペンケースといったステーショナリーも同時に展開され、幼な心には魅力的な文房具として目に映っていた。 文房

        • 全人類スキャナー時代

          写真家の伊丹豪さんが「あたかも自分がスキャナーになったように被写体や風景を写し撮っていく」と話されていたこと、この動画のなかで話されているイメージセンサー x AIの進化や、ここ最近のiPhone Xで写真を撮ると同時に前後のシーンの動画を保存する機能にも見られるような日々拡張しているより綿密な記録が残っていく現実感に、もうすでに始まっている全人類スキャナー時代の創造が掻き立てられます。 bgm:Asahiko Oomiya - starman /* note */ デ

        ショットグラスに指輪を落とすような光景に出くわしたことはあるだろうか。

        • 『ちはやふる -結び-』 に寄せて

        • “ネバーランド” 小学生の頃から高校生になって間もない頃まで、豆電球と電池が冒険をする漫画をノートに描いていた。

        • 全人類スキャナー時代

          シュルレアリスムの風化、ミノトールが残した偉業からの現代的な感受性を再認識 à nouveau Surréalisme & Minotaure

          第14回 関西シュルレアリスム研究会にて、シュルレアリスムの貴重書を閲覧しました。京都産業大学の図書館で購入された『VVV』(トリプル・ヴェー) と『minotaure』(ミノトール) を閲覧しましたが、『minotaure』(ミノトール) を簡単に紹介しながら、その重要性を再確認したいと思います。 『minotaure』(ミノトール) は、1933年に創刊された雑誌です。そのタイトルは、ギリシア神話の牛怪獣からとられています。6年間のうちに計13号を上梓して、芸術家や詩人

          シュルレアリスムの風化、ミノトールが残した偉業からの現代的な感受性を再認識 à nouveau Surréalisme & Minotaure

          Just Breathe

          2011年に催されたIAMASの修了研究発表会にて、“詩” にまつわる作品を出展していた際に、作品について問いを投げかけられた「君にとって詩は何ですか?」と。その時のぼくの回答は、何か色々と答えになりそうなありあわせの可能性を口まかせに話したように思う。もちろん、その中に確固たる答えはなくて、今になっても “詩は何か?” についての正しい答えは持っていない。 けれども、詩人の北園克衛の言葉を借りて一つだけ言えることがある。 彼は、詩論 “詩の新しいジェネレーションに” の

          Just Breathe

          もしも、向田邦子が寺田寅彦だったら

          月刊ヌートリアまわり通信 vol.71に寄稿したエッセイでは、もしも、向田邦子が寺田寅彦だったらという妄想を膨らませながら書きました。“一番書いてはいけない不道徳” を描いていると語られてしまう向田さん、そこに寺田寅彦の心優しくも論理的な着目を、また時折にひょうきんな態度を見せる文言を、やんわりと織り交ぜるような実践を通して “美学” について考察しました。ひとそれぞれが抱く美しさは、一歩外に足を踏み出すと他の人にとっては不道徳と感じられることもあり、えも言わぬ自然の美しさす

          もしも、向田邦子が寺田寅彦だったら

          This is moment wave, absolutely. 記憶を生み出す振る舞いについて。

          月刊ヌートリアまわり通信 vol.70 に寄稿したエッセイの中でソーシャルVR (Virtual Reality) が活かされる未来について考察を綴りました。寄稿文の中では、一つの方位磁針の役割として “インターネットや現実世界での記憶を残す振る舞いに注意することが、これからの “人となり” の明暗を分けるのではないかと考察しています。” と結論を述べた。それについて補足を付記しておきたいと思う。 先日、ピエール・ブーレーズ (Pierre Boulez) が亡くなられた。

          This is moment wave, absolutely. 記憶を生み出す振る舞いについて。

          小田香監督『鉱』(ARAGANE) に寄せて

          『鉱』(ARAGANE) は、小田香監督によるボスニアの炭坑で黙々と働く坑夫たちを撮ったドキュメンタリーである。地下300メートルの炭坑の奥深くで持続する採掘の作業が、坑夫たちにとっての日常であり、その中で交わされる作業の指示や冗談めいたやりとりを通してうかがえたのは、私たちが普段の日常の中で織りなされる仕事や会話と何ら変わらない価値を持っているということである。採掘の騒音が切り取られたほんのつかの間の幕間のような採掘物が流れていくサイレントなシーンで、そのシーンまでに異国の

          小田香監督『鉱』(ARAGANE) に寄せて

          写真家の佐藤柊による「まばたきのあいだに」は、“まばたき” をすることによる一連の運動から美しい物語が紡がれていくことに気づかせてくれる作品集である。

          写真家の佐藤柊による「まばたきのあいだに」は、“まばたき” をすることによる一連の運動から美しい物語が紡がれていくことに気づかせてくれる作品集である。 また、8mmフィルムを回した時の独特な色味を表したかのような質感を持つ写真が、記憶を切り取っている様子を際立たせており、一個人のプライベートフィルムのような視点でまとめられている。 “見る” という行為は、しばしば写真や映像を通して、客観的な視点によって気付かされる。実際に自分の目で見ている時は、見ている対象に対して関心は

          写真家の佐藤柊による「まばたきのあいだに」は、“まばたき” をすることによる一連の運動から美しい物語が紡がれていくことに気づかせてくれる作品集である。

          巷に溢れる顔、人の顔だけでなく、看板に配された顔、顔のように見える模様など、どこまでの再現性が私たちに顔と認識させてしまうのか。

          巷に溢れる顔、人の顔だけでなく、看板に配された顔、顔のように見える模様など、どこまでの再現性が私たちに顔と認識させてしまうのか。 現実世界では、原子や分子の集まりの割合によって、コンピュータの世界ではビットやピクセルという定められた範囲内で表現される。 人が人であると認識されるおおよその第一印象は、顔を意識するところから始まる。 その顔を認識する能力が、各種アカウントに用いられるアイコンによって、人の印象が決定づけられたり、モデル化されてしまったならば、一体どのように分

          巷に溢れる顔、人の顔だけでなく、看板に配された顔、顔のように見える模様など、どこまでの再現性が私たちに顔と認識させてしまうのか。

          「大文字の音楽というよりも、音のデザイン (sound-design) に力を尽くしている。僕たちの主たる目的は、受け手との聴取可能なインターフェース (an audible user-interface) を持つことだ。」

          「大文字の音楽というよりも、音のデザイン (sound-design) に力を尽くしている。僕たちの主たる目的は、受け手との聴取可能なインターフェース (an audible user-interface) を持つことだ。」Ovalのリーダーであるマーカス・ポップが、以前に語っていた言葉通りのことを結実させた様な作品から一つ抜けて、“音楽” と “音のデザイン” として対比された思想が融和し、Ovalの “音楽” を鳴らしていた印象がある。第ニのデビュー作とも言われている所以

          「大文字の音楽というよりも、音のデザイン (sound-design) に力を尽くしている。僕たちの主たる目的は、受け手との聴取可能なインターフェース (an audible user-interface) を持つことだ。」

          『音響メディア史』を読み進めていると、フランシス・バラウド ≪主人の声≫ 1898年が出てきたので、何となしにメモとともに描いてみた。

          『音響メディア史』を読み進めていると、フランシス・バラウド ≪主人の声≫ 1898年が出てきたので、何となしにメモとともに描いてみた。ここに描かれている犬の Nipper (ニッパー) は、“亡くなった主人の声が蓄音機から聴こえてくると、そこに近づいていってラッパ状の再生管を覗き込んだという。” (p54) このように忠誠を誓った、あるいは親しみを覚えて人生の一部を共にしたものが亡くなり、その血肉や記憶の深いところに結びついた “声” を別のメディアを通して真摯に聴いている状

          『音響メディア史』を読み進めていると、フランシス・バラウド ≪主人の声≫ 1898年が出てきたので、何となしにメモとともに描いてみた。

          おはよう。

          Good Morning.

          おはよう。