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朝、3時間の自由

デイサービスに行かないと言い出してから、母の起床時間は極めて遅くなった。10時半から11時くらいの間にベッドに起き上がっている。さすがに空腹感があるのだろう、ご飯食べよう、と声を掛けると今や母の陣地と化してしまった介護ベッドを降りて来る。今までは口癖の「おなか空いてない、食べられるかしら?」だったのだけれど。

前向きに考えることにした。デイサービスに送り出すにはまず、なだめて納得させて着替えさせて食べさせてと大忙しだ。それがなければ、娘が出勤した後の7時半から10時半までは私だけの自由時間だ。先ずBBCニュースで頭をブラッシュアップする。居間でゆっくり珈琲を飲みながら、パソコンを開く。こんな日常だからこそできることを仕事にしようと考えはじめている。好きだからこそできることを丁寧に組み立ててみよう。そして春になったらネットオープンする。webで仕事ができる、ありがたい時代になったものだと思う。

『ゆっくりと丁寧に仕事をする』、ひとつ間違えると殺伐としてしまう毎日だからこそ、この朝の3時間でコツコツと積み上げてみよう。好きな事を好きな人と好きなように........。昨晩遅く、古い知人に相談のメッセージを送って寝たのだが早速に今朝、今、話せるよと返信音が鳴った。電話して10年ぶりにお互いの声を聞く。Facebookで繋がってはいても、過ぎた時間の長さに今更ながら驚く。人生の後半になったから出来ること、次の人に繋げていけること、その想いを語り合う。やってみよう、このご縁を大切に。

そろそろ母を起こして朝食兼昼食にしよう。ブランチとでもいうのか。そして家事をした後の午後、自室に籠って仕事をする。そういう日常を作っていこう。来月から花療法のプロテクショナーに来てもらうことにしている。母の話し相手をしてもらいながら心の奥底の謎を紐解いてもらうのだ。一緒に散歩をしてもらう人をお願いして、家の近所を歩いてもらおう。合間に私と娘が散歩に連れ出せばいいのだ。母のことはしばらくそっとしておこう。歩けなくなったらそれは母の運命。足が萎えることで頭も耳も萎える。身体は全部繋がっているのだ。そしてその身体は心が作る。相手を理解しない、寄り添えないのがアルツハイマーなのだから話し合いは難しい。母が望まない思いは暴言となって返ってくるだけ。母の強さは親族一同が認めるほどの筋金入りなのである。もし、これまでの人生に、自分が相容れないものであっても認めるという知性とユーモアがあったならこうはならないのではないか? アルツハイマーだろうが高齢だろうが........と思うのだが間違っているだろうか。

母は自分がアルツハイマーであることは多分、分かっていてそのことを怖がっている。自分がいらないものになりつつあるのではないかという漠然とした不安が我儘と気まぐれを加速させる。..........そうじゃないんだよ、と喧嘩しながらでもこの1年、言い続けてきたけれど、頑なに心を開かない。何度も泣きながら抱きしめながら伝えたけれど、今、この時の自分の思いが叶わなければ、母にとってはすべては無なのである。

だけど、100%諦めきってしまうことはしないでおこう。ちょっとだけでも心が和めば、次の瞬間に無になっても悲しまない、怒らないそういう自分になろう。日日是好日で暮らしていこう。育ててくれたこと、一緒に楽しんだこと、あの時この時のことを全部引っ張り出してそれを力にしていこう。

さあ、母を起こして今日を始めよう!!!

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