豆腐

豆腐の味はほんとうに不思議だ。味がないといえばないのだが、どんな料理に入っていても他の味と混じりあわない。いつも必ず豆腐の味がする。冷奴に醤油をかけたら、豆腐と醤油の味が同時にするだけだ。みそ汁に入れても味噌と豆腐の味は別々に感じる。焼肉をタレにつけ白米にのせて食べるおいしさではない。玉ねぎやじゃがいもをカレーに煮込むのとはわけが違う。豆腐はいつも豆腐でしかない。

彼女とつきあって徐々に学んだことは、リダンダンシーを恐れないことだ。冗長さ。同じことの繰り返し。「つらい」と言われたらそのまま「つらいよね」と返す。何の意味もないようだが、そうしてじっと一緒にいることはかなりきつい。時にはそういうLINEや通話のやりとりが何時間も続く。無意味な時間を終わらせたくて、ついおれは建設的だったり生産的だったりするようなことを言おうとする。話をまとめて次に進もうとする。しかし意味ってなんだろう。それはおれの考えることじゃないのだ。

何かしようとすればするほど事態はこじれる。不安を和らげようとしてもいけない。ただたんに話を聞く。そのうち、むしろこの無力と孤立こそが彼女が伝えたかったことなのかもしれないと思い始める。

フロイトが精神分析を実践する医師への心構えを説いている。分析の間はメモや記録は取らず、どれかひとつのことに意識を集中しない。「平等に漂う注意」だ。そのようにすべてに等しく注意する技法とは、いってみればぼんやりしながらそばにいることに近いんじゃないか。無意識に向き合おうとするなら、こちらも無意識にならなければならない。これを音楽を聞くときのひとつの姿勢としても受けとめてみたい。実際、音楽を聞くというのは、誰かの夢に耳を傾けるようなことじゃないだろうか。

おれも彼女も、豆腐のようにもろく、どうしようもなく孤立している。そして豆腐は豆腐でしかない味のない味を必ず守る。いまつるりとした味噌汁の豆腐を舌に感じつつ、やわらかい心について思う。この特異な味。豆腐メンタルは悪いことじゃない。

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