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File.55 映像を通して人と、社会と向き合う 飯塚 聡さん(TV ディレクター/映像作家)

佐藤真監督のドキュメンタリー映画などへの参加を経て、数多くのTV番組の演出を手がけ、現在は長年携わってきた障害者施設での取材をベースにした映画の制作にも取り組んでいるという飯塚聡さん。その活動の軌跡と、映像制作にかける思いについて話をきいた。
取材・文:佐野亨
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写真:福祉事業所「ほわほわ」でのワークショップの取材風景

——映像の仕事を始められたきっかけからお聞かせくださいますか。

いま現在の実家は父の故郷である島根県の出雲ですが、小学生の途中まで奈良県奈良市で生活していたので、原体験は関西にあります。その後、出雲で高校まで過ごしました。出雲では近所にメジャー系の映画館しかなくて、たまに『エイリアン2』(86)などを興奮して観ていましたが、大学に入ってから東京のミニシアターに足繁く通うようになり、当時評価が高かったニュー・ジャーマン・シネマの作品や小津安二郎のリバイバル、台湾ニューウェーブの作品などに惹かれていきました。そうして自分でも映像制作の道を志すようになり、松竹が運営していたKYOTO映画塾に2年間通いました。

——KYOTO映画塾を卒業後、映画製作会社シグロに入社されるわけですね。

KYOTO映画塾で映画の現場に触れ、その後の進路を考えているときに、映画塾で講師を務められていた美術監督の内藤昭さんを通じてシグロから求人があり、翌年公開された東陽一監督の『絵の中のぼくの村』(1996年)の製作デスクを担当するという形で入社しました。

——シグロではどのようなお仕事を?

『絵の中のぼくの村』の時は、実際に撮影現場に出ることはできませんでした。映画の完成後は上映や配給に関する諸々を担当することになりましたが、僕としては「現場に出たいな」という気持ちが強かった。
その後、佐藤真監督のビデオ作品「水俣病ビデオQ&A」(1996年)に編集補佐としてつく機会を得ました。佐藤真監督の『阿賀に生きる』(1992年)は、大学時代にミニシアターの映画を追いかけている流れで観ていて、とても心を揺さぶられました。新潟水俣病を扱っていながら、画面に映っているものはまさしく阿賀に生きる人々の日常で、こういうドキュメンタリーがありうるのかと新鮮な驚きがありました。
「水俣病ビデオQ&A」の後まもなく、障害者アートについての映画を佐藤さんが監督されることになり、「是非参加させてください」と頼んで助監督を務めることになりました。

——それが『まひるのほし』(1998年)になるわけですね。ここでの経験が、現在、飯塚さんが手がけていらっしゃる障害者施設関連の映像制作につながっていくのでしょうか。

僕の兄は発達障害のひとつ、アスペルガー症候群という診断を受けています。実は映像の仕事につこうと思ったのには、華やかなイメージのある映画の世界に進むことで、そういう事実から遠く離れたいという気持ちが大きかったんです。だから、佐藤監督と仕事ができることは嬉しいけれど、障害者についてのドキュメンタリーに携わることは自分のなかで葛藤もありました。でも、『まひるのほし』の撮影でいろいろな作業所などをまわってみたらとても楽しかった。とくに取材先のひとつである、当時平塚にあった作業所・工房絵(かい)の雰囲気がとてもよかったので、その後、僕自身がカメラを持ち込んで、約2年間にわたって取材・撮影をしたんです。結局、いろいろ事情があって公に発表することはできていませんけれども。

——フリーランスとして活動するきっかけは?

約1年を費やして『まひるのほし』の撮影から仕上げまでを終え、やがて上映配給に入っていくわけですが、その時点で「もう制作以外はやりたくない」という気持ちが僕のなかに強くありました。本当に、わがままなんですけどね。それで会社に無理を言って辞めてしまった。なんの伝手もなく無計画にフリーになったので、しばらくは友達からテープ起こしのバイトをもらうなどして食いつないでいました。そんなときにシグロでお世話になった監督さんから「生きてるのか?」と連絡をもらい(笑)、「自分が関わっている番組でアシスタントがほしいから、やる気があるなら現場に来ない?」と誘っていただいたんです。それをきっかけに制作会社とつながりができて、NHKの番組などTVでの仕事をコンスタントに手がけるようになりました。

——映画とTVの違いはどのように意識されていますか。

まだ自分では映画作品を完成しきれていないので偉そうなことは言えませんが、技術的な細かな違いはあれど、映像文化としての根っこの部分は同じではないかと思います。もちろんTVの場合、制約は多いですよ。使ってはいけない言い回しや見せてはいけない場面がいろいろある。そういうことに無批判に慣れきってしまうのはよくないと思いますが、一方でそのような放送コードが成立していくのにもさまざまな理由があるわけです。いわば、そのときどきの社会が求める条件とか、観る側の人たちの願望とか、それはさまざまな面に渡ります。そういうことについては、TVであろうと映画であろうと、表現に携わるなかでつねに考えていかなきゃいけないと思っています。

——取材相手との関係性、撮影を通じた向き合い方についてはどのように考えていらっしゃいますか。

障害者の方と関わっていると、相手を子ども扱いしてしまうということが起こりがちなんです。言葉づかいなどでよくありがちなんですが、そういうふるまいをしてしまってから、「あ、ここは成人施設なんだ。この人は自分より年上かもしれない」と気づいてハッとすることがある。つまり、無意識のうちに自分が上に立っているような錯覚に陥ってしまっていることがあります。当然のことですが、どのような境遇の方でも、たとえば50歳の方には50年の時間の蓄積がある。その時間に対する想像力と敬意をもって相手と関わることが重要だと思います。なんにでも手を出したり過剰にケアしてあげようとしたりということも基本失礼に当たると思います。助けを必要とされるまで待つ、頼まれればきちんと応える——そういうものすごく基本的なことを意識しながら、カメラを向けさせていただいています。

「ほわほわ」でのワークショップの取材風景

——施設での撮影は新型コロナウイルスの影響なども大きかったのではないかと思いますが、現在の仕事の状況についてお聞かせくださいますか。

一昨年、独立行政法人福祉医療機構(WAM)の助成を受けて横浜市旭区の6ヵ所の障害福祉施設が劇作家や演出家の協力のもと演劇のワークショップを実施したのですが、私がその記録映像を担当しました。
翌2022年度は、神奈川県の共生共創事業の一環として「ほわほわ」という事業所での取り組みを撮影させていただき、その様子をまとめた「ぷ・ぱ・ぽの時間」(2023年)という作品が、先日、神奈川県のYouTubeチャンネル「かなチャンTV」で公開されたところです。
同じく旭区の事業所のひとつ「むくどりの家」では、ワークショップ以外の日常やさまざまな出来事も撮らせてもらっていて、こちらはさらに取材・撮影を続けて、今年中か来年の春頃までには映画作品として完成させたいと思っています。
自分の作品以外では、布川事件を題材とした『オレの記念日』(2022年)など、ここしばらく冤罪事件をテーマにドキュメンタリーを製作していた金聖雄監督が、在日二世であるご自身のルーツにまつわる作品を企画しているので、そのお手伝いもする予定です。
さきほど、『まひるのほし』のときには、障害者に関するドキュメンタリーに関わることに抵抗もあったとお話ししましたが、現在では自分のライフワークとして向き合っていく覚悟でいます。そのなかで、映画として完成させられるものもあるだろうし、これまでのようにTV番組を通じて発信できることもあるだろうし、映像文化の現状を考えると、個人的に公開・配信していくなど、さまざまな活動をエンパワーメントしていくにあたって、すぐに参照していただけるような映像も必要だろうと思います。たとえば「こういう活動があって、こういう取り組みが必要とされているのか」と誰にでもポンッとわかってもらえるような映像ですね。そんなふうに状況に応じて、自分が曲がりなりにも育んできたドキュメンタリー制作のスキルを役立てていきたいと考えています。

映像のもつ力を信じて、静かに、しかし強い思いをにじませながら語る飯塚さんのまなざしが印象的だった。彼が「ライフワーク」と語った映像制作が、今後どのような作品に結実していくか注目したい。

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飯塚 聡(いいつか・さとし)
1995年に映画製作会社シグロ入社。記録映画『まひるのほし』(佐藤真監督)の助監督などを務めたのち、1998年よりフリーランスの映像製作者(主にディレクター)として活動を開始。NHKのドキュメンタリーや情報番組を中心に、短編・長編を合わせ100本以上の番組の演出・制作をしてきた。ほかに展示映像や福祉事業のPRドラマ作品なども手がけ、近年は自主製作映像作品にも積極的に取り組んでいる。

Facebook https://www.facebook.com/satoshi.iitsuka.7/
「ぷ・ぱ・ぽの時間」は、以下のページから視聴可能
https://kyosei-kyoso.jp/events/howahowa2023/


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