今更、ドラマ「雨が降ると君は優しい」をみた(ちょっとネタバレ、考察)


2017年にHuluで配信された野島伸司脚本によるドラマ。

野島脚本のドラマは「美しい人」(99年)、「プライド」(04年)の2作しかおそらくみれていないが、どちらもトレンディドラマのノルマを完全にクリアしながら、キリスト教的な配色、構図などを巧みに無駄なく配し、主題歌も台詞にも一切の無駄がなく、きちんと拾い集めていけばパズルのようにすき間なくはまる。
メロドラマ、トレンディドラマの皮を被ったとある概念、とある真理を検証するための寓話となっている。

セックス依存症の妻とその夫の物語。お話の中に登場する象徴的な色、モチーフ。妻がセックスの衝動が起こった時にだけ着る赤い服、性衝動を表す赤いムカデ、夫が常に着ている青い服、雨、犬、小鳥…


赤く罪の色に染まってしまい、何度も懺悔し苦しみ、それでも罪を重ねる妻の姿はユダのようにもマグダラのマリアのようにもみえる。自分の欲望から確かに発生しているものではあるが、理性や意思では抗うことが困難な病は原罪そのもののようにも思われる。だが、白=天使、純潔の色を纏う存在でもある。
その夫、妻の裏切りや、あらゆる理不尽にも耐え、微笑んで許し、全てを請け負うような、青という慈愛と高貴の色をまとった者は救い主イエス、あるいはマリアにもみえるが、その苦悩する姿は迷い子そのものだ。そして夫もまたユダでもある。

また、陰陽のような表裏一体の言葉たちが物語の中で美しいシンメトリーを形作る。性愛、主従、愛憎、救い主と救われる者、加害者と被害者、喜劇と悲劇…
それらが前後、力関係が逆転したり、まざりあったり、二律背反になったりする。
割り切れない、白黒つけられない、
型通りに行かない、型などない、とでもいうように。

物語という実験室、登場人物というサンプルをつかって愛にまつわるひとつひとつを検証していく。
極端に設定を制限し、受難に次ぐ受難を与え、愛の行方を検証する。

型(既成概念や常識といわれるもの、あるいは位置付け)を次々とあてがってははまらない、あてがってははまらない、そういう確認作業、証明のように思われる。


常に問う。
悪者は誰だ、苦しんでいるのは誰だ
誰が被害者で、誰が優しくて、こういう時に何をしたら正しいのかと。
その問いに明確には答えず(答えられず)に進み、毎回それとは違う道を選択する。
答えなどないからだ。
決められた答えなど。
こと、愛の話においては。

暴力を振るった者、振るわれた者という関係性においては加害者と被害者と言えるし、そこは明確にするべきだろう。しかしこの物語ではその境界を明確にすることが優先ではない。誰もが罪人であり救い主であり迷い子である、と明記することが優先順位の上位にある。

だが、罪人は迷い子でもあるから許される、ということではない。

愛によって誰もが悦びを得、そして囚われ、苦しみ、救われ、嘆く。と物語は告げる。


情愛とは
なんと苦痛で、悦楽で
絶望で、希望なのだろう。

しかし、同時にとても素朴な姿をしている。
そう、証明は終えられる。

愛を閉じ込めたのか、解きはなったのか。あるいは両方。

現実がそのように終着するか、というより、愛という概念が望んだ行方。
それは彼岸のような、どこにあるかもわからない場所。あるだろうか、そんな場所が。

そう途方に暮れながら、その途方もなさに、その悲しいほどの素朴さに希望も見出すラスト。

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