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ぼんやり

時々遠くを見ているね…そんな風に言われたことがあります。

 朝のトークで「ボクもまだまだ多くの作品作りを楽しむことが必要...」と書いてから自分で少し違和感を感じました。

 元来ぼんやりした性格だからか「〜しなければならない」とか「〜する必要がある」という言葉を行動原理にしてきました。そうでないと際限なくぼんやりしてしまうからです。

 実際、日常はたくさんの「〜しなければならない」とか「〜する必要がある」ことの連続です。それを一つずつこなしてほっと一息つく頃に一日が終わります。

 何事も義務になった途端に息苦しさを感じませんか?

「休みになったから有意義に過ごさなければならない。」
 仕事が多忙を極め、寝る間もない程の頃にボクはこの考えに囚われて貴重な休みに友人と少し遠い所まで釣りに出かけました。ボクが車を出したので運転もボクでした。そして川原に着いた途端、気が緩んでそのまま夕方まで眠ってしまったのです。
 友人は申し訳なさそうにしていましたが、一日空気の良い川原でせせらぎを聞きながら眠っていたのですから有意義には違いありません。ただ、有意義に過ごすことばかりを優先して回りを見渡す余裕がなくなっていたのでした。

「遊んでもいいよ」と「遊ばなくてはならない」では開放感が違う気がしませんか?
「仕事してもいいよ」と「仕事しなくてはならない」でも取り組む姿勢が違うような気がします。

 何かに集中して取り組む時、それ以外の情報は遮断されます。そうすることで効率よく目的を達成出来るわけです。

 アイディアが生まれる時はその逆の状態が望ましいのかも知れません。
 散歩したり、サイクリングしたり、トイレに入ってたり…ぼんやりしている時にアイディアが降りて来る気がするのです。
 時には集中してアイディアをひねり出すこともあります。そういう時は…無理してるのでアイディアと言うより苦心して組み立ててる感じになりますね。
 もしかしたら集中力を開放することによりより多くの情報を受け取り、脳内の自由な情報交換を許している状態なのかなと思うのです。脳の呼吸?インプットとアウトプットですね。

 ところが、ぼんやりすることを義務化するのは難しいですね。義務化したらぼんやりではなくなります。

 義務ではなく許可ならいいのかもしれません。

「ぼんやりしなくちゃ」ではなく「ぼんやりしてもいいよ」という感じでしょうか。それすら意識しないのがベストかと思いますが、ボクの場合は元来そういう性質なのでボクにはやっぱり許可制がいいのかなぁと思ったりします。

 最近は暑さのお陰でしっかりぼんやりしてますけどね。

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