加筆の記:月岡芳年が通った遊女・幻太夫
幕末・明治期を代表する浮世絵師のひとり、月岡芳年。彼が通っていた遊女「幻太夫」について以前に記事にしました。
※記事を書いた当初「幻太夫」の読みを「げんだゆう」と思い込んでいましたが、よくよく資料をあたってみると「まぼろしだゆう」が正しい読みでした。URLが http://artistian.net/yoshitoshi_gendayu/ となっていますが、今さら訂正もできず現在に至っています。
浮世絵にもたびたび登場した幻太夫。遊女では珍しかった切り下げ髪、阿弥陀如来や羅漢など仏に関するものやドクロをモチーフにした着物を身に着け、お坊さんが虫を殺さずに追い払うために使ったという仏具(払子)を持っていたといいます。
幻太夫といえば「想っているのはあなただけ」という証を示す”心中立て”のために小指を切り取って三菱財閥の総帥(おそらく岩崎弥之助)に送り付けた逸話が知られていたようです。この話は小説「燕子花起證一筆」として新聞『自由燈』に連載されました。挿絵を担当したのは皮肉にも以前に幻太夫のもとに通っていた月岡芳年でした。
上記の記事は、2018年に書いてから少しずつ加筆を行っています。
幻太夫の年齢と生まれ年
大きく加筆したのは幻太夫の年齢・生まれ年について。記事にした当初は、幻太夫が横浜高島町にあった神風楼に在籍した明治11年を20歳として推定していました。
しかし、『自由燈』に書かれた三面記事に幻太夫が登場し、年齢と生まれた年が判明しました(以下、引用部の句読点・太字は引用者によるもの)。
この記事から幻太夫は明治17年で32歳ということがわかります。ちなみに記事文中の「露は尾花と寝たといふ~」の節は男女の仲を歌った江戸小唄の歌詞。「景清が~」という箇所は、歌舞伎十八番のひとつ「景清」のなかで平景清が源氏の武将から平氏のお宝のありかを聞かれても答えなかった場面になぞらえています。
警察署に拘引された幻太夫ですが、すぐに示談が成立していました。こちらの記事でも「景清」になぞらえた「六波羅」という単語が出てきます。
幻太夫に実際に会った印象
加筆部分では取り上げませんでしたが、実際に幻太夫に会った人物(飯島花月)が幻太夫の印象について語っています。
有髯男子(ヒゲのある男性)は当時、政治家・学者など先生と呼ばれる職業や官僚など威厳のある職業に多く、ヒゲは権威の象徴でした。幻太夫があるときは痴愚を装い、あるときは傲慢な態度をとり、出身を隠すために遊郭で使用された「ありんす」などの廓詞で話す姿に、さすがは権威ある男たちを翻弄してきた評判の遊女だと恐れ入ったというのです。
前述した新聞記事で「どなたも娯存じ」と書かれた通り、界隈では知られる遊女だった幻太夫。当時の他の新聞でも「金毛九尾の狐如来」「野狐の外面如菩薩」と書かれていたとか(『歴史と旅』1998年10月号「強力読物 妖艶幻太夫一代記」より)。会う前から「お騒がせ遊女」のイメージが強かったようで、実際に会った印象もかなり先入観があったことがうかがえます。
なお、幻太夫と会見した飯島花月は「指切の逸話」を当時知らず、幻太夫の小指の有無を確認できなかったそうです。
幻太夫の写真
幻太夫の記事で浮世絵師・小林清親が幻太夫の着物に羅漢の絵を描いたという逸話を紹介しましたが、実は孫引き(『浮世絵志』第16号「芳年と幻太夫(下)」)で、一次資料は先ほど引用した『東京新誌』第1巻第6号「北廓花盛紫」です。記事を書く際、この資料にあたることをサボってしまいましたが、そこにはなんと幻太夫の写真が掲載されていました。
これは幻太夫が35、6歳(明治20年)頃に信州上田の連歌町の大石という写真店で撮影された写真。当時の幻太夫は遊廓を去り、当地で出会った岸俊雄(※1)という工学士と交際中。評判だった切り下げ髪は短く切られ、櫛巻きに束ねていました。
浮世絵に描かれた姿とは異なるものの、鋭い眼差しと固く結ばれた口もとは長いあいだ苦界を生き抜いてきた強さを感じさせます(これも先入観かもしれませんが)。
※1:『東京新誌』第1巻第6号「北廓花盛紫」のなかでは幻太夫と交際していたのは杉山脩吉という名前で記されていますが、後に著者の飯島花月が名前は記憶違いで岸俊雄であると訂正しています(『浮世絵志』第17号「「芳年と幻太夫」を読みて」)。
幻太夫についての詳細は下記の記事に書きましたので、よろしければご覧ください。