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目的ないもの

NHKこころの時代で、医師と禅僧の対談がありました。医師は垣添忠生さん。40年以上がん治療に取り組んだ経験と、最愛の妻を看取った思いが、禅の心、仏教の心に通じると、僕の大好きな僧侶ネルケ無方さんが答えます。

坐禅は、何か目的があって取り組むものではないという会話がありました。悩みをどうにかしたい、悟りたい、さまざまな目的を手放して、ただ座る。そして今に集中する。
一回の坐禅で、生と死を体験するといいます。命を受け取り、そして手放す。次々に手放して、今に集中する。
垣添医師は、愛妻を亡くされ、悲しみで血の底に落ちたと言われました。しかしそれから、ちょうど100日あたりで気持ちが前に向き、体を鍛え始めました。そして、その年の初夏に、妻と言っていた奥日光に出かけた時、不思議な体験をしたと語ります。

生まれ変わりなのか、姿を変えて、守ってくれてる存在を確かに感じ、心の支えにしている。自分は妻を看取り、今は妻から看取られている。

悲しみに暮れた時、無心になる時間が大切だと両者は語ります。そして、ただ「聴く」ということが、どれだけの癒しに繋がるのか、と。

目的がないこと。ただ純粋にそこに集中すること。相手のために聞こうとか、ああしてあげたい、こうしてあげたい、それらの気持ちを手放して、ただ聴く。ただ座る。そして、ただ描く。

目的を求めすぎていたなと感じます。やる意味、意義、約束を求めてしまいます。

きっかけはモネのため。しかし、ただ描くことに集中する。
意味も、意義も、ミッションも、家計も、家族も、仕事も、相手も、家族も、過去も未来も、手放して。

手放して、死に。生まれ、死に、生まれ、そのうちに、ティクナットハン禅師もいう、「生まれることも死ぬこともない」境地に至るのでしょうか。それもまた、目的になってしまうのでしょう。

ただ、生きる。
ただ、描く。

ペットロスがひどく、力が出ません。それはそれで、受け入れて、元気な自分の像を手放します。
いたしたかないことです。

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