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【私がここにいれるのは】

おはよう。
何度も言うようだけど
このブログは自分のために書いている
けっして誰かに読んでもらおうなんてことはみじんも思っちゃいない
だから、表現だったり体裁に関しては乱雑なところや、ここでそんなこと書く?ってところもあると思う。あらかじめ断っておく。

さて、私は、いま30歳。
もうすぐで31になる。

そんな私はここ十年間ひとつのことに没頭してきた
それは心の研究です。

2015年8月21歳の頃にこの場所に出会い
本格的に始めたのが2018年1月7日24歳の時。
あの日からもうすぐで6年ということになる

この場所に出会い、この道を選択する人としない人がいる
それは当然のことだけれど、その違いはいったいどこにあるのか。

ふと、今朝そのことを想ったんだ。

なぜ、この世界に感動し、可能性を感じるのに
選択する人としない人に分かれるのか。

その違いを私は次のように診断した

  • 人生に本当に絶望してるかどうか

  • その場の一過性の感情でしかなく、現実世界の方が楽しい

  • 今ある現状に満足していて、それ以上求めなくてもいいと思っている

  • 問題意識が浅い

  • 本当の意味で人のためがどういうことなのかわかっていない

  • 本質的な話だから、これで現実を創っていけると思ってない

  • 現実逃避が上手

  • お金がかかる

  • 真理の威力をわかっていない

  • 涙が浅い

  • この現実に対して依存性が高い

  • この道に出会ったプロセスに問題がある(どんな出発意志で出会ってるか)

といったところが出てきた

とはいえ、、
そうだったとしても選択する人は選択し続けている
上記全てが当てはまるわけではないけど、それが私。

絶望しきっていない
問題意識が浅い
涙も浅い(個人レベルの涙でしかない)

けれど、この道を選択し続けている

選択し続けない人たちと
何が違うのか。

よくよく考えたら、私が出会った時代は
無料でこの価値あるコンテンツに出会えた。

その時代に出会ってる人たちが多かったから
なんで今いなくなってしまったのかわからなかったけど
それが少しわかった気がする。

結局、涙の深さと決断の深さ
意志の問題だと思う

あとは出発点の意志。

どれだけ深い決断と覚悟で
その人に出会ってきたのか。

私の場合は、出発点に対する信頼と安心感
出発点の私に対する意思への信頼が深かった

あと、
ここに来るまでに
生死をさまよう絶望地獄と
並々ならぬ数の出会いを蓄積してきた

私自身の心が
あらゆる世界をみないと
自分の選択に納得がいかないと決断していたから

本当に経験できることは経験した

とはいえ、
こういう自分自身も
この道に出会ったあとも
他の道に心が揺さぶられたりしていた

結局、自分も現実主義の道に心惹かれていた一人だった

けど、そんなときに

「そっちじゃない。
優先順位が間違ってる。」

と、そう諭してくれた仲間がいたから
今私はここにいる

結局、私の心の意志の声を仲間たちが引き出してくれて
私はこの道を選択し始めた

けっして一人ではここまでたどり着けなかった

私がこの道を選択し続けるって迄に
本当に多くの出会いと障壁があった

まるで、精子と卵子が出会って人間ができることの奇跡のように
私という精子が、ずっと心の底から探していた道(卵子)と出会うまでに
並々ならぬ困難を乗り越えていったようだ。

ようは
出発点がどれだけ意志があろうとも
その本人の意志が無ければこの道を選択する決断と覚悟は生まれない

だからといって、出発点意志を疎かにしていいという話ではなく
それはそれで、いつか出会う相手の精子のために愛を送り続けることが大事だ。

私は、この道の仲間と出会うまで
人というものを信頼していなかった。
独りで生きていく。
それが私の人生の流儀だったから
誰かによって成功した人生なんか求めていなかった

でも、今となって思う

観点の問題は、人間の無限の可能性を妨げている最大の敵だ。

この一人の観点が
限界を創っている。

この観点に気づかないと
永遠に人間は、さなぎと繭の中から出られない。
永遠に孤独な人生を歩むことになる。

いま私がここに居られるのは、
ものすごい奇跡だし、
奇跡でもあるし、必然でもある。

だって、
心の意志がずっと探していた世界だから。

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