麒麟が来た 5
麒麟が来た 1
麒麟が来た 2
麒麟が来た 3
麒麟が来た 4
の続きです。
麒麟が来た #5
(何者でもない。大いにけっこう)
そう思った。
そして、そこに「わたし」がいた。
それは全体に溶けていくような私であり、同時に、確固たる、唯一無二の『わたし』だった。その『わたし』は、この世界と、この五感、この体、この感情、この思考から、完全に超越した『わたし』だった。
何者でもない。私は、わたしに成れた。
いつか瞑想の深みで気づいた「わたしはいない」という、非二元的な感覚ではない。
「I`am」だ。
モーセが神に対して「あなたは誰ですか?」と尋ねた時、髪は「I`am that I`am」と答えたと旧約聖書にある通り、まさしく「わたしは、わたし」だったのだ。
僕は「わたし」に出会えた。わたしを観たし、わたしの見てる世界をようやく観れたのかもしれない。
「vision(ビジョン)」だった。それは、わたしと世界のコラボレーションによって起こる創造の架け橋。
そんな清々しい、自由な私。
この世界の舞台に生きているのだから、これから何をするのか?
海から上がり、風に任せて体を乾かし、パンツだけ履いて(流石にそこはマナーですね)、砂の上に寝そべり考えてみる。
やりたいこととか、そんなものはなかった。そして、自分には何もないと知っていた。
今まで、自分が才能とか、特技だと思っていたもの。使命感を持っていたもの。
それらがすべて、生まれて、社会的に、生存戦略的に身につけたものであり、思い込みであり、ただの小手先にしか過ぎなかったのだ。
ちょうど、こんな歌を作ったのも、まさしくその通りだったけど、
本当に、自分にはなにもなかった。
文章力や話術も、人より秀でてるようで、実はまったく大したことがないのだと、痛いほど認めていた。自分の代わりはいくらでもいるし、むしろ自分よりもいい仕事するだろう。
となると、自分にやるべきことなどない。
だったら昨日考えた通り、全部やめてしまってもいいかもしれないな。本気でそう思ったけど、
「声はある」
とだけ、思い付いたというか、どこかから降ってくるように、頭の中に浮かんだ。
僕は空っぽだったし、何者でもないけど、声を発することができた。
今思うと不思議だけど、どうして「声」と思ったのだろう?
そして「目の前の人」がいる、と思った。
目の前の人、というのは、今現在“自分と関わり合う人”という意味だ。
家族、友人、そしてコミュニティの仲間や、自分のワークショップなどに来てくれる人、自分の文章を読んでくれる人。
声を、届けよう。
声で、届けよう。
声が、届けよう。
歌とか、話す内容云々ではなく、声だ。声そのものだ。声そのものに、通ずる力がある。そう確信した。
何を伝えるのか? それは、それぞれが、“わたし”に出会い、自分のvisionを観ること。霊性への道。伝えるのはそれだけだ。自分がやってきた探求は、すべてそこに通じてる。それを、あらゆる「声」を通して伝えよう。出会う人に。
ただ、ありのままで伝えようと思う。嘘や誇張はなく、何かを隠すわけでもなく、自分を大きく見せたり、夢を見せるのでなく。
となると、練っていたプランはやはり完全に流れた。(麒麟が来る #4参照)
しかし、今思うと「危なかったな」と思う。
なぜなら、僕は多少強引でも、多少の嘘でも、本物を薄めて、着色したり、必要以上にアピールして、人の気を惹いて影響力を持たせようと画作していたからだ。愚かにも。
僕にそれらのアドバイスをくれた知人は善意だったと思う。善意で、僕のビジネススタイルや、僕のポテンシャルに対して、良かれと思って言ってくれたのだけど、もしあの話に乗っていたら、僕は僕じゃなくなっていたような気がする。
僕は自分に嘘はつかない。嘘をついたり、ふわついたものを提供したり、自分でも曖昧なもので影響を与えたり、それで金を稼いでも、それは違うものだ。
それこそ、この体験のストーリーをもとに、「麒麟の声を聞く男」とか「麒麟メソッド」とか「麒麟との対話とメッセージ」みたいなのやればさぞかしウケるんだろうけど(笑)、そういうのはもちろんやらない。
(微塵もそんな「特別性」を助長したくなかったので、麒麟の話はずっとしなかったわけだし)
まあ、それでやったところで、成果はたかが知れてたとは思う。仮にウケたとしても、自分は幸せになれないし、そもそもそういう能力や才能が、自分にはあまりないと知ってるので、無理をして疲れるばかりだっただろう。
だからますます僕は目の前の人に、自分なりに、精一杯わかりやすく、その人が最も最善へ向かえるように伝えるという、地道な作業を繰り返すだけ。
☆
2024年になった。今年は「辰年」とのこと。
「辰=龍」ということで、そういうのが好きな人は盛り上がっている。
でも、能登の地震がいい例のように、「スピリチュアルで豊かさを!」とかなんとか言っても、災害ひとつで吹き飛ぶし、豊かさとか、お金とか、願いがどうのこうのとか、それはこの日本や地球という「舞台」があってこそ。舞台そのものがぐらついてる時に、そんなものはなんの役にも立たない。
スピリチュアルは「現実」だ。僕の前に現れた麒麟が、肉体を持ち、物質として存在してたように、リアルなのだ。
さて、龍の話を書いている人は多いけど、先日誰かの投稿で、
「龍は成長し麒麟になる」という文章を見つけ、気になって読んでると、
「麒麟の出す鳴き声は邪気を祓う」
ということが書いてあった。調べると、確かにそんな話があるようだ。
麒麟の声。まさしく、僕が鳥取で聞いた、あの奇妙珍妙奇天烈な鳴き声ではないか…。
あの時、僕は「邪気」を払われたのかもしれないと、2024年の年明けになってそう思う。
そして、僕が翌日「声がある」と自分自身に思ったことも、なんとなく今となってつながりを感じて仕方ない。
僕は「ボイス・ヒーリング」などで、「声による癒し」をやっている。LIVEでも、音楽イベントでありながら、声を使った浄化や意識変容をテーマにしていた。
また、「聖音(マントラ)」を使った瞑想も、「声」がポイントだ。
僕がずっと音楽をやってきたとうこと、歌を歌ってきたということ、それがすべて自身の聖音の響きの理解と発声につながっていた。
点と点が、線になった。麒麟の声で、今になってそう確信した。
☆
麒麟の声のおかげで、大きなインスピレーションを、あそこで受け取った気がする。
でも実は「どうしてあんな変な声だけだったんだ!何か言葉で言ってくれればわかりやすいのに!」なんて思ったこともあったけど、それも現実。
麒麟が来た、と題して書き進めてきたけど、今回でとりあえず終わりにする。
僕がこの麒麟の体験を通して、どんなメッセージがあり、どんな意味があるのか、具体的なことはまだわからない。上に述べたことは、僕の洞察がほとんどだ。
でも、もっと後になって、きっと紐解けて、つながっていくのだろうと思う。
伝える、ということ。文章は書くし、動画などでもあれこれ伝えているけど、やはり「交流」だなと思う。目の前で、声を届ける。一方通行の言葉ではなく、目の前の人に向けての声。
こんな時代だからこそ、人と人との、リアルな出会いと交流をしていきたい。手応えのある関係を大事にしたい。そう思います。
☆ イベント・ワークショップ
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