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「平均」という幻想

このシリーズ(?)で、人間の「身体」の事を書いてきたのだけど、

この近代の世界はすべてが「数値」に置き換えた。もちろん、そこには我々の肉体も数値化されている。身長、体重はもちろん、血圧やらガンマGDPとか血糖値とか。数値にする事で何がわかるのか?

数値が出ると、わかるものがある。「平均」だ。

多様な数値を基に「平均値」が割り出され、平均値と逸脱していると、それがプラスでもマイナスでも、「異常」が判断される。

背が高いとか太ってるとか、果てはスリーサイズやチン〇の長さまで平均値があり、それによってついつい我々は人より優れいてるとか、秀でてる、または劣っているとか、良くないとかを気にする。

もちろん、数値化されていなくても、その「考え方」がインストールされてるせいか、「普通(平均)」という感覚が身についてしまい、「あの人は背が高い」「あの人はとても痩せている」「あの人はバストが大きい」などと、実態のない平均値と比べて判断している。

現代の我々は、見たまま、聞いたまま、感じたままの判断より、そんな平均的な概念から、物事を判断してることが多いような気がする。

一体我々は何を持ってその「平均的」価値観を自分の中で確定させているのだろうか?仮に数値としての平均値だとしても、どうしてそれが重要なのだろうか?

もしもあなたが今、自分のことに関して、誰かと比べて落ち込んでいたり、悩みを持っているとするのなら、そんな「平均」の罠にハマっている可能性もある。平均が正しいわけでもないし、まして多勢が正しいわけではない。

今の時代に我々が思っている、知っている、当たり前に行っている「常識」や「正義」なんて、時代が変わると共にどんどん移り変わる。

例えば、今の日本人なら、「お風呂は毎日」と思ってる人が多いし、むしろ常識的(平均的)だと思うが、昭和初期は「シャンプーは10日に1度!」というのが石鹸会社の広告だった。

それがだんだん「5日に1回」「3日に1回」「朝シャン」と、どんどん変わり、今ではほとんどの人が毎日髪や体を洗う。洗剤メーカーと広告代理店の見事なマーケティングに国民が全員ひっかかってる。

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