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探求文庫 16〜19

2021年の8月から始めたnoteサークル(現在はメンバーシップという名称に変更されたけど、サークル(輪)という言葉が気に入っている)、「探求クラブ」内での「探求文庫」。

探求クラブ内でも、「過去記事が全部掲示板をスクロールしてさかのぼるので読みづらいとご指摘をいただき、マガジンにまとめることにしました。(こんかいは12
〜15の4つです)

過去のもので、途中まではメンバーでない方も読めるようになっています。もしご興味ある方は、掲示板を読める「探求読書コース」もあります。

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探求文庫 16 積み重ねれば積み上がる

この地球という星は、重力があり、体は重く、動けば疲れ、目の前の人の気持ちもわからないという、ある意味不便な星です。それが3次元の世界のルールであり、我々はそのルールに合意して、ここに生まれてきました。

ちなみにこれは「サッカーするなら手を使ったらダメだよ」というルールに合意して、ゲームに参加したようなものです。

僕らはこのフィールドにいる限り、ルールの中でプレイしなければなりません。(フィールドから出ることが、悟りとか目醒めというやつです)

天の世界ではそんなルールはなにもなく、すべてが愛、すべてが光、すべてが至福。しかし、それでは「つまらん!」と、神は我々を通して、このゲームを楽しんでいます。神は我々自身で在り、「体験」を求めているのです。僕らは進んでその体験をしようと、地球に降りてきた魂です。

ゲームの話に戻ります。

ゲームってルールがあるからこそ楽しいです。サッカーでみんなが手を使ったり、野球のバットを使ったら面白くないです。だから、このルールを僕らは楽しむべきだし、ルールならでは楽しみ方もあります。

それが「積み重ねれば、積み上がる」というルールです。

3次元世界のいいところは、積み重ねれば、必ず積み重なっていくというシンプルな構造があります。

「継続は力なり」と言いますが、回数をこなし多分、確実に約束される世界ってあります。

逆を言うと、積み重ねないと積み上がらない、というルールもあります。

しかし、「やった分だけで積み上がる」のだから、やらない手はないのでは?

魔法を使って、積み重ねる時間、労力などを使わずにやろうとする人もいます。「近道」を探したり、「もっとも楽な方法」を探します。自己啓発やスピリチュアルも、今はそういう状態です。それは願望実現、お悩み解決、悟りや覚醒など、魔法を求めがちです。

しかし、三次元の地球では、積み上げるしかないのです。

ただ、そこで大事なことがあって「人と比べない」ということです。

人の積み上げた高さを見て、「私はまだまだだ…」と落ち込んだり、「私の方がすごい!」と優越感を持ったり、これはどちらも真理とはかけ離れたものの見方です。

なぜなら、積み重ねる行為は自分にしか出来ないし、積み上がったものは、自分のものであり、他者には関係ないからです。

もしも、他者の評価が気になるのであれば、どうして他者の評価を基準にしてしまうのはなぜか?を、胸に問いかけるべきです。

そして「何のために積み重ねるのか?」「それは本当に積み上げたいものなのか?」

瞑想もそうですが、ご自身のペース、というのは大事です。しかし、昨日の壇珠さんのように「やる!」と決めたら、言い訳をやめて思い切り毎日取り組んでみる、ということも大事です。

残念ながら人間のマインドって弱いです。そうそう古い習慣を変えて、新しい習慣が身につくことはないです。

だから、何かを積み上げると決めたなら、毎日少しでもやってみる、という覚悟で取り組むことをお勧めします。

瞑想を例に出すと、1日3分でもいいです。1分でもいいです。それが「自分のペース」ってやつです。

ただ、0分にはしない、ということです。それが新しい習慣を身につけるコツであり、継続のポイントです。

積み上がった先に何があるのか?それは現段階ではまったく見えません。「期待」はあるでしょう。「予測」もあるでしょう。しかし、積み上がったものは、予想や期待を、いい意味で大きく裏切ることはしばしばです。地球ってそういう星です。

同じ地球に生まれた仲間。僕らはみんな兄弟姉妹のようなものです。それぞれのペースはあれど、こうして「探求」とか「瞑想」というテーマに、意識をシェア(共有)できることは素晴らしいことですね。なんせチームメイトですから。

もちろん、瞑想とかじゃなくても、積み重ねるのは何でもいいです。何でもいいから積み上げてみると、人生はとても面白いことが起きます。


探求文庫 17 感じる=受け取る


僕はよく「“与える”と“受け取る”はひとつ」という話をします。

これは宇宙の法則のようなものです。自分で撒いた種は、自分で刈り取ります。だから、与えるものは、そのまま受け取るものになる。

りんごの種を植えればリンゴが実るように、優しさは優しさを、怒りは怒りを、それぞれが播いた種を刈り取ります。それをカルマという表現をされる方も多いです。

しかし「浄化」、「クリーニング」などで、そのカルマのエネルギーは、戻ってきても「共鳴しない」ということはあります。それがエネルギーの世界の不思議なところですが、基本的には「与えたら受け取る」なので、日々放つ言動は、宇宙に与えているものなので、自分のためを考えても、気をつけた方がいいのです。

ここまではnoteのマガジンや、日々の発信で書いてきましたが、今日はその少し上級編です。

そもそも「与える」とはなんでしょうか?

もちろん物質的な寄付や、直接的な行為、奉仕、そして言葉や態度などわかります。
しかし、我々の「感情」も、宇宙に「与える」というものの対象です。つまり、あなたは直接的にを与えなくても、例えば「ありがとう!」とか「嬉しい!」「大好きだ!」などのポジティブな気持ち、そして「こんちくしょう!」とか「ばかやろー!」などのネガティブな気持ちを放つだけで、そのエネルギーを誰かに(宇宙に)与えているということです。

もちろん、そこで念の強さや、回数によるので、ちょこっと思ったくらいではすぐにどうこうなるってことはまずありませんが、でも確実に、それを回収します。なので、ポジティブなものは良いのですが、ネガティブは感情を抱いたら、すぐにそれに「気づく」こと。そして「クリーニング(浄化)」をすることが必要になります。

しかし、直接的に人を憎んだり、怒りを向けなくても、ちょっと見聞きしたものに対して「嫌だな」、「それはおかしい!」「ざまみろ」とか、小さな感情を抱くことってありますよね?人間ですから、仕方ありません。でも、これは「与えた」ことになります。

「じゃあ何も思うなって言うの?」

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