新しい学校のリーダーズライブ考2021年秋 東京編その2

 最終人類と聞いてイメージするのはディストピア。それも地球最後の人間が行き果てた世界。最早「類」という集団を形成することもできない。滅びゆくのみ。夢も希望もない。全ては朽ち果てていき、最後に残るのは灰と音楽だけだ。朽ち果てたと書いたが、朽ち果てるというよりは灰燼と帰した世界。人類自らの手によって人類を滅ぼすという、ありきたりではあるが絶望的な世界だ。

 高層ビルは崩れ落ち、人も獣もいなくなった世界には樹木も育たない。残っているのは様々な残骸である灰と、自然が織りなす音だけだ。風が吹く音、瓦礫が砕ける音。水が流れる音。砂塵が舞う音。その音は荒廃した世界が奏でる音楽であり、唯一響く音でもある。最終人類として朽ち行く世界は、灰と音楽しか残っていない。
 もしこのような世界から人類が、或いは新たな知的生物が再生するとして、我々が聞いていたような音楽は再生するのだろうか。それとも新たな音楽が生まれるのであろうか。いつの日にかシンフォニーが鳴り響き、闇の中から咲き乱れるのであろうか。

 かつて、新しい学校のリーダーズは最終人類の間奏中、歌に入りきらない詩を声に出さず淡々と口ずさんでいた。今はもうしていないし、何を言っていたかも分からなかったが、それでも言外の思いがひしひしと伝わってきた。これから何千年か何万年か先、人類が滅びてしまったときに地上に残るのは灰と音楽だけだとして、その音楽が残っていたとしても、それを認識できる者は既にいない。認識できる者がいない世界においての音楽の意味とはなんであろうか? その存在価値、レーゾンデートルとは? それは逆説的に現代にも訴えかけていることでもあろう。
 
 全てのものが灰燼と帰し、無常に音だけが鳴り響く世界。その世界に対して彼女らは思いを詩に込め詩を歌に込め、舞いに魂を込める。私はこの最終人類を見るたびに、なんというどえらいものを体験しているのだと放心する。もしこの世から音が無くなったとしても、無音の中で踊り、組み合い、感情を露わにして口や顔を動かす彼女らの舞台を見れば、頭の中でシンフォニーのごとく音楽が甦り、灰とミュージックが闇の中に咲き乱れ、いずれ世界に光を射すことになるのであろう。

 少女らが全身全霊をもって舞い、歌う最終人類。
 ディストピアの先にあるまだ見ぬユートピアの片鱗。
 新しい学校のリーダーズが世界を再構築し、力強い光で照らし始める。
 最終人類を見るたびにそんな妄想の未来が灰色の脳細胞の片隅に浮かび上がる。

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