韓国の読者から寄せられた『図書館には人がいないほういい』の感想をご紹介します

6月に発売した内田樹さんの『図書館には人がいないほういい』の編訳者・朴東燮さんから、韓国で司書の仕事をしてらっしゃる方の感想が送られてきました。韓国版と日本版とでは収録しているテキストが一部異なりますが、図書館や司書を論じたメインのテキストは共通しています。本に収めた推薦文からも分かることですが、この感想文を読むと、図書館が置かれている環境、図書館をめぐる状況や、学校図書館のあり方が日本と韓国とでよく似ていることがうかがい知れます。とくに図書館関係者の方はぜひご一読ください。

内田樹「図書館には人がいないほうがいい」の韓国の読者レビュー

「世の中のすべての図書館で魔法が効くとよい」

高校で国語教師として働いて28年目になるのだが、そのうち20年間は学校図書館の業務を担当していた。もちろんこの司書の仕事は無理やり引き受けたわけではなく、いつも喜んで担当している。実は司書の仕事がとても好きだったあまりに、新学期がはじまると、そわそわする。ほかの人が図書館の業務をしたいと手を挙げるかもしれないという不安のためだった。参考までに、学校現場で司書の仕事はあまり人気のない仕事だ。司書教諭がいないとか、私のように自発的に引き受けようとする人がいない場合、図書館は立場の弱い、新人教員の担当になったりする。同じ学校で4〜5年勤務し、ほかの学校に異動するころになると、一度は必ず悪夢を見ていた。 異動先の学校に行き、業務を引き受けたのだが、私に図書館の業務が回ってこないという、悪い夢だった。

しかし夢は現実とはちがい、異動するたびに学校図書館の業務が私のところにまわってきた。そのおかげでこれ以上ない幸せな時間は20年間続いたが、21年目には司書の仕事はわたしに回ってこなかった。 辞令を受け取ると、 異動先の学校には専門家である司書教諭がいたからだ。

「私の愛する図書館の業務」を担当できなくなると、何を楽しみに生きていけばよいのか心配していたが、司書の仕事を任されなくても何の問題もなく時は過ぎて行った。
しかしときおり知りたくなった。私はなぜそこまで学校の図書館が好きだったのだろうか。図書館のどんなところに20年間も夢中になっていたのか。実は私は蔵書の分類もきちんとはできず、文献情報学の資格ももたない、無資格で中途半端な図書館担当教師だったのにというわけだ。

ところで、内田樹先生の「図書館には人がいないほうがいい」で私の知りたかったことに関する洞察あふれる知見に出会った。著者は学校の図書館の話をするために、まず保健室の話をする。保健室は学校の中における異世界であり得ると著者は言っていた。そこでは子どもたちを一切差別しないから。病んだ人たちを誰であれ受け入れて癒やしていく。

保健室以外の学校を支配する秩序はなんだろうか。通常「教育」と言うが、実際には韓国社会の学校では評価と序列、等級づけが蔓延している。中等教育はもっとそうだ。この秩序とは違う空気が保健室に流れているのだ。時々,学校の保健室に行くと、いつも保健室にだけいると言ってもいいような、よく来ている学生たちがいる。その学生たちは常に具合が悪いわけではない。しばらくの間眠ってちがう世界に避難しているのだった。
著者は図書館もまたちがう空気が流れる世界だと言う。図書館は学生を批判したりせず、評価したりもしない。なんといっても差別したりしない。成績が優秀な学生がより多く本を借りることができるわけでもなく、成績1位の学生だけが見ることのできる本が特別に存在するわけではない。

学校の図書館はほかの世界に旅立つことのできる扉をたくさんもつ世界であり、司書教諭はちがう世界に行く扉を開いてくれる点で魔法使いに近い。宮崎駿監督のアニメーション映画『君たちはどう生きるか』が思い浮かんだ。主人公の前にいくつかの扉がある。その扉はそれぞれちがう世界に通じていて、主人公がある扉を選び、力いっぱい開けることによって、ちがう世界にぴょんと去っていくのだ。

図書館は学校という世界の中の「別の世界(訳者の朴東燮先生に訊いてみたところ、内田先生はこれを日本語では『アジール』だと呼んでいるそうである)」だ。学生にとってはそうだ。

それでは、教師にとって図書館はどんな空間だろうか。教師には職場である学校は、授業、成績処理、学生生活指導、校内暴力(やいじめ)の対応といった業務の世界だ。これに比べ学校の図書館は上司の許可というべき「決裁」がない世界であり、マニュアルにしたがった業務進行過程のない世界だ(もちろん図書館の業務の担当者は図書館の業務を処理するが、図書館を訪れる教師にとって図書館の意味は異なる)。
出題ミスを心配しながら試験問題を作らなくてもいいし、試験結果によって子どもたちの格付けをしなくてもよい世界だ。また修能試験(日本の大学入試共通テストにあたる)の問題を解かなくてもいいし、保護者の苦情のない世界だ。

私が見るに「私」という人間は、公務員世界にあまりむいていないようだと思う。他人の指示や命令を聞くと「私がなぜ他人に指示されるまましなくてはならないのか」という反抗心が本能的に生じ、マニュアルに従う業務の処理をしようとすると「私は機械なのか」と思って、イライラする。いつも不平をならべる人間だ。教師生活を始めた当時にもう我慢できなくて辞表を出したいと思った時も多かった。家族も当時の私を鮮明に記憶している。せっかく入った職場をすぐにやめようと言うわけだから家族は不安だったという。いつでも辞表を出してもおかしくない人だと思われていたわけだ。

出勤しながらも、逃げ出すことを目論む日も多かった。束草市(ソクチョ市)へ、ソウルへ、違う国へと。もちろん学校に出勤はしたが、心は別の世界に逃げ出したかった。今になってわかる。私の不適応病、逃亡病がいつ消えたのかということだ。

それは学校の図書館業務に出会った時からであり、図書館で学生たちといっしょに本を読み、語りあうことが好きになったときからだった。

大人でありながら、教師である自分にも図書館はちがう世界に旅立つことができる魔法の空間だった。学校への不適応教師が学校を楽しい居場所であり職場であると思うようになった出発点に図書館があった。ここではない別の世界が必要だと思う教師に図書館は新たな世界に向かった扉をいつでも!思いっきり開いてくれた。もちろん私は魔法使いの能力を持ってはいなかったが、書架に収められた本と学生をつないでいるので、ある意味魔法使いだというわけだ。そうして20年間、私は学校で「魔女」として生きてきた。

魔法の空間に、効率、役に立つかどうか、成果主義の観点で接近すると、おかしいのだ。資本と市場の論理で見つめる人たちが図書館を奇怪な言葉でやりこめる理由がまさにこれである。
本のタイトルのように「図書館には人がいないほうがいい」という著者、内田樹先生の言葉は図書館の訪問者数で、貸出数で、予算効率で判断してはいけないという意味だと読める。魔女の仕事をマーケットの論理で評価しようとしてはダメだということのようだ。

世の中のすべての図書館で魔法が効くとよい。いつでも本の扉を力いっぱい開き、よりたくさんの人が見慣れない世界に旅立ってしまえば、図書館と地域の書店で出会う人たちが別に金儲けに加えることはできなくても、ともに暮らすコミュニティをどんどん作るといいと思う。
また、学校に私のような中途半端な魔女が増えて、学校の空気とはちがう呼吸をし、ちがう考えをして、たくさん笑えたらよいと思う。(了)

 

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