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フランス私的色彩帳

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#小説

テーブルまでいそいで

住んでいるアパートの建物を出て左にまっすぐ歩く。一つ目を通りすぎて、二つ目の通りを左に曲がる、と、つき当るボナパルト通り、通称ナポレオン通り。通りに出てすぐの場所に店を構える長身のカフェの店主に挨拶、その隣の洋服屋のスキンヘッドの店主にも挨拶、少し歩いて雑貨屋の前で店主に挨拶、そのまま進んでお洒落さんたちが集まる眼鏡屋も、薬屋も、ゲイが集まるバーも何百種類ものチーズをショーウィンドウに誇らしげに並べているチーズ屋も甘いヴァニラの香りで客を呼ぶクレープ屋も通り越して、角のカフェ

ジョバンニの買った夢

歩道の脇、食料品スーパーの前、メトロの構内、メトロの車内、ありふれた日常の中、日本では全く見かけない光景というものがここフランスにはある。 物乞いである。 自国の紛争で自国を去ることを余儀なくされたいわゆる難民とよばれる人たち、高い失業率や病気のために職を失い、もしくは企業に失敗し、果ては住む場所さえも失った人たちが、歩道の脇、道端に座り込んで道行く人へ物を、ほとんどの場合はそれはお金であるが、恵んでもらうよう声をかけているのである。メトロの車内では大きな声を張り上げて演説

Paris 私的回想録 - 6 区 -

初めてパリを訪れたのは、今から十年以上も前、当時働いていたアパレルブティックで次シーズンの秋冬物を買い付けるための1週間の出張旅行だった。その当時働いて会社の女社長から、次のパリコレクションの買い付けにあなたを連れて行くわと任命され、彼女と専務を務める彼女の夫と三人の旅だった。 わたしがその当時働いていた会社が経営するブティックはパリやミラノコレクションが好きな人なら誰でも知っているそれはそれは錚々(そうそう)たるブランドを取り扱うセレクトショップで、女社長が一代で築き上げ

Paris 私的回想録-4区

アンドレと出会ったのは、今となれば名前も覚えていないけれど、サンポール駅から少し歩いたところにあるマレ地区の屋根裏部屋みたいなバーだった。 友人の誘いで顔を出していた、お互いのドレスを褒め合うだけのつまらないパーティを抜け出し、行く当てもなく夜道を散歩している時にたまたまそのバーを見つけた。他に行くあてもなかったし、せっかくの土曜日の夜で早い時間でそのまま帰る気にもならなかったのだ。 入り口の扉を開けるとすぐに上階へと続く古びた階段が現れた。誘われるようにして上に上ると、ま

欠片、何かを呼び起こす瞬間

ピカリと鈍い銀色に光る冷蔵庫の中にその大きな体ごと中までどんどん入っていくんじゃないかと思うほど、ごそごそと頭を突っ込んでスタンが長い間何かを探している。 料理をするからみんなでワインでも飲もうよと、久しぶりにフランスへ帰ってきたスタンから呼ばれ、気の置けない仲間で集まるまだ日中の明るさの名残が残る夜の始め。 朝の市場で調達してきたという食材をどしどしとキッチンの作業台に並べていくスタンの手つきは、無造作でいてけして乱暴ではなく、心地の良いリズムにのっているかのようななめ