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中勘助 なか・かんすけ (1885年 [明治18年] -1965年 [昭和40年]) の誕生日 (5月22日) 小説家・詩人 / 東大寺南大門と長屋王鎮魂説


中勘助 なか・かんすけ (1885年 [明治18年] 5月22日-1965年 [昭和40年] 5月3日) 小説家・詩人・随筆家。


🔍 青空文庫 中勘助の作品  


🔍 青空文庫    和辻哲郎「古寺巡礼」(1946年改訂版 [初版は1919年])

七章、二十一章に出てくる、奈良帝室博物館 (現・奈良国立博物館) にほぼ毎朝行き、東大寺に宿泊し、當麻寺の塔の風鐸をどう思います、と聞くN君が中勘助であると言われています。

🔍 青空文庫    和辻哲郎「月夜の東大寺南大門」 (「古寺巡礼」の一部 [二十一章より]) 


📷 中勘助が好きで中が十文字と述べた法隆寺の塔の風鐸

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📷 夜の法華堂 (三月堂)   和辻哲郎が「古寺巡礼」二十一章 (リンク上貼) で月明りの三月堂を「これこそ芸術である。魂を清める芸術である」と讃えています。 

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📖 ブログ内 三月堂関連記事 (一部)
https://note.com/artandmovie/n/n9eb7f7404aa4 /
[国宝建築記事] https://note.com/artandmovie/n/n8f0622c17453 /


🔍 岩波書店公式ページ  「中勘助」検索結果  

https://www.iwanami.co.jp/search/?search_menu=keyword&tab=3&search_word=%E4%B8%AD%E5%8B%98%E5%8A%A9%C2%A0  

岩波文庫だと「銀の匙」をよく書店で見ますね。解説は和辻哲郎。


📔 本ブログ内関連記事 

🔍 高瀬正仁さん (数学者・数学史家) の記事 (22年2月)

/🔍 同 (21年7月) https://note.com/takasenote/n/n41a6d68b5286 / 


🔶東大寺南大門と長屋王鎮魂説


(中勘助と直接関係が無いと思いますが、)
写真の東大寺南大門の金剛力士 (仁王) 像 (鎌倉時代。門再建時の制作) は阿形吽形どちらも、睨む目線が門の正面 (入り口) とは逆の方を向いてますね。

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更に、通常仁王像は門の入り口から見て左が吽形 (うんぎょう。口を閉じた方) 、右が阿形 (あぎょう。口を開けた方) であるのが、東大寺は逆になってます。
そもそも両像が向かい合っている形も独特ですが。
仮にこの像が通常の配置であれば、睨む目線は門の入り口の方を向いていたはずで、それをなんらかの理由で逆にしたのでは。 

東大寺は、法華堂金剛力士像 (天平時代) [※1] も中門の二天も「阿形・吽形」が向かって左・右の順なので、本像の制作当初からの立ち位置かもしれませんが、
ならば「内向き [北向き] の目線」は初めからの意図的な設定となり、それが不思議に感じます。 

将軍源頼朝の訪門を意識して、来訪者を睨むかたちを避けたのかもと考えました。
ただ、他の寺院の仁王において、門をくぐる人の方向を睨むのは普通の形であって、特に避ける理由にならない気がしますが、
向かい合う立ち位置による「横目」を独特に感じて、あえて内向き目線にしたのかもしれません。

🔸 「鎮魂思想的」解釈

梅原猛は「隠された十字架」で、法隆寺中門の柱間が偶数 (四間) であり、中央に柱が立つ独特の形式が、聖徳太子の怨霊封じのためであるとの説を出しましたが、
この東大寺南大門も、以前から私も述べている「東大寺本尊 (大仏) =長屋王鎮魂説」と考えあわせて「鎮魂思想的」に解釈すると、
阿吽が逆に立ち、仁王が向かい合って内部に目線を向けた門自体が、
あたかも「逆向きに建つ門」であり、「封じている」かたちにも見えます。
(この門の北面に、北を向いて吠える二体の獅子像があるのも特殊な形式でしょう。)

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以前本ブログ [※2] で記した、東大寺法華堂で唯一北を向く執金剛神像 (仁王の原形と言われる) と二月堂修二会の走る松明との位置関係と似ているのでは。 

🔸

鎌倉時代に建て直された南大門で「長屋王」のことまで考えているだろうか、
と一瞬思いましたが、私たちは天平草創期の南大門を見ていません。
平安の人々は天平の南大門を見ていたでしょうから、草創期のその形式を鎌倉期の南大門が踏まえている可能性も有ります。

土壇は天平草創期のものと言いますから、そこから何か読み取れるかもしれません。

🔸 門と「頭塔」と「八角燈篭」 (「木魅塚」を中心とした南北の「永久循環」)

東大寺南大門から更に南へ行き、登大路との交差点の (すぐ北東に「木魅塚 [こだまづか]」がある) 位置から見て、
北にある東大寺金堂 (大仏殿) へとほぼ同じ距離を南に取ったところに、
東大寺二月堂修二会 (「長屋王一族鎮魂説」がある) の創始者、実忠が作ったピラミッド状の土の仏塔「頭塔」(史跡) が位置します。

先述の「逆向きに建つ門」の解釈だと、南大門は「頭塔」への門でもあると言えるのでは。
懸崖造りの二月堂のポジションと似て、西に平城京、生駒連山を望む高台にあり、
元来あった古墳にのせてまで、その位置に建てられた「頭塔」の
各段各所に穿たれた龕にある天平の石仏は、大仏殿前の金銅八角燈篭 (天平盛期。国宝) の火袋のレリーフ「音声菩薩」との様式的な類似が指摘されています。
例えば微笑んだ目の、眉と並行の湾曲した横線による表現、
立像の足の甲の、斜め上からの視点による描き方などが殆ど同一です。

私はこの「頭塔」 も「長屋王一族の鎮魂施設」だと考えます。

大仏殿前の金銅八角燈篭は、八角形という形状が「慰霊施設」の八角円堂の形式と同じであり、
ほぼ円形の壇、蓮台に坐す大仏そのもの以上に直接的に「鎮魂」の意図が示されている感じを受けます。
(現存する頭塔 [第二次頭塔] の平面は正方形ですが、奈良国立文化財研究所の「史跡頭塔発掘調査報告」[2001年。ダウンロード] では、
[大野寺土塔 (※3) 頂上部の円形タイル跡を参考として、]  
頭塔頂上部の八角円堂の復元図面案が提示されています。)

巨大な大仏が見つめる、回廊に囲まれた八角形の物体で「頭塔」と似た菩薩が微笑み、南大門をはさんで「頭塔」との間で、木魅のごとく循環を繰り返す構図かもしれませんね。


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📷 木霊塚   南西からの画像。以前は、この区画とほぼ同じ大きさの円墳状の土山でした。

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📔🔁 ブログ内 関連記事 (岡寺本尊と石窟仏の目線の先にある龍封じの石蓋について)  https://note.com/artandmovie/n/n43813839a860

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※1
先述の通り東大寺では「阿吽が左右逆に立つ」ポジショニングは、法華堂などでも見られます。
法華堂の鎧を着た珍しい形の金剛力士の視線は、 (人が南北に通過する南大門と違って) 参拝者が南にいるからか北を向いてはおらず、それでも参拝者に対して顔を横に向け気味の立ち方となっていますが、
「金剛力士の原形」である執金剛神の像が北を向いて立っています。

私は法華堂に関しても、上に述べた「修二会を行う二月堂が北にある位置関係」、「仁王が左右逆に立つこと」、本尊の不空羂索観音が「水晶玉」を抑え込むかのごとく強く合掌していること、不空羂索観音のそもそもの「狩猟的」「(阿修羅と闘う) 戦闘的」な由来、同像が巨大で厳しい武装守護神像ばかりに囲まれていることなどから、「(長屋王一族の) 鎮魂」の面があると考えているのですが、

法華堂に関しては、しばしば東大寺に関して最近のマスコミで専ら述べられる「聖武天皇・光明皇后の亡児、基王の追善」の面も、例えば不空羂索観音の宝冠の頂にもう一つ水晶玉があることなどから読みとれ、

「基王の追善」と「長屋王一族の鎮魂」双方の面を持つと解釈しています。

🔸

万物の始めと終わりを表し、熟語にもなっている「阿・吽」が通常「向かって右・左」の順に立つのは、
日本での表記が「横書き (本来はそれも『一字ずつの縦書き』とのこと)」でも右から左に読む「右読み」だったことが理由と考えられます。

東大寺、長谷寺銅板法華説相図 [白鳳か天平。国宝] 、韓国の新羅式石窟庵の阿吽が逆の「左・右」の順に立つのは、
「右読み・縦書き」の東アジアに仏教が伝わる以前の、 
サンスクリット語の左から右へ読む横書きの形式を踏まえているのかもしれません。
しかし、天平盛期の東大寺が何故そんな (法隆寺中門仁王 [天平初期。右・左立ち] よりも『古い』) 形をとるのか?
特別な理由があってのスタイルだと考えてしまいます。


※2
📔 本ブログ記事


※3
📷 大野寺土塔と復元模型

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📔 ブログ内 行基関連記事 (streetview大野寺土塔画像有り)


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🔍 GoogleMapStreetView (頭塔の北面から西の平城京跡、生駒山を望む)

🔍 ホテルウェルネス飛鳥路公式ページ「頭塔」

🔍 ウィキペディア「頭塔」


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📔 本ブログ内関連記事 (一部) 








📔 ブログ内「長屋王」関連記事リスト (検索結果) 


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(22日12月21年1月2月3月7月6日8月22年8月10月23年10月更新。タイトル追加。28日「廟所建築」→「慰霊施設」 9月20日目次設定)


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