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永井路子 「美貌の女帝」 による、 無視し得ない 「蘇我系」 の観点

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永井路子 (1925-2023) の長編小説「美貌の女帝」(1985年) は、「沈静婉孌」(ちんせいえんれん もの静かで若く美しい  続日本紀) と讃えられた奈良時代の女帝、元正天皇 (げんしょうてんのう [氷高皇女 ひだかのひめみこ]) を主人公としています。
永井路子はこの作品で従来の通説とは異なった、真逆とすら言える視点を提示しました。

通説では、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての女性天皇 (持統天皇、元明天皇、元正天皇) は、男性皇族の軽皇子 (文武天皇)・その子の首皇子 (おびとのみこ 聖武天皇) が成人して即位するまでの「中継ぎ」として皇位についた、という見方が専らでした。 

そこで特に重視されているのは、「聖武天皇の母 (宮古) が (天皇の母として初めて) 藤原氏出身」であるという点です。
[ 聖武天皇の父の文武天皇の場合は、母が元明天皇 (阿閇皇女 あへのひめみこ) 、祖父の草壁皇子は母が持統天皇 (鸕野讃良皇女 うののさららのひめみこ) 、といずれも「皇族」であり、それぞれの母方を見ても藤原氏はいませんでした。(※1) ]

首皇子 (聖武天皇) の時代にも、"皇族や他氏族" を母方とする皇位継承候補が複数いたにも関わらず、
藤原氏を母方とする男性皇族 (聖武天皇) への「中継ぎ」という見方が、専ら当然のごとく成されているのは、当時の実質的有力者を藤原氏 (藤原不比等) と見なし、
それを母方 (外戚) とする男性皇族が帝位に就くのが当然だとする、
言わば「(結果論的な) 勝者の歴史観」に立つ観点と言えるでしょう。

(日本の史学者は史料批判が厳密だと、しばしば言われますが、
こういう日本の通説での「歴史観」について、
「厳正な史料批判」というよりも「功利的な観点」「強者を中心に見るイデオロギー性」を感じるのは私だけではないはずです。
学者ですら「聖武天皇 (首皇子) 即位の為の」「中継ぎ」と言うのですが、
そもそも「聖武天皇の為の」と見る資料的な根拠は有るのでしょうか?
当時を描いた史料「続日本紀」「風土記」「万葉集」等の現代語訳は全て読みましたが、そういう記述は記憶に有りません。
例えば続日本紀に有る、いわゆる「不改常典」ではその観点への直接的な説明として不十分だと思います。「不改常典」自体にも多様な解釈が有ります。

[元正天皇の即位は首皇子の714年の立太子の翌年ですが〔文武天皇が即位した年齢と同じ15歳の首皇子は、元明天皇により「年歯幼稚」とされた若年のため、即位を見送ったとのこと。〕、元明天皇の即位は首皇子の立太子より7年前の707年。])

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そんな通説に対して永井路子が「美貌の女帝」で提示したのは、「蘇我系」という観点です。
持統・元明・元正はいずれも外戚に蘇我氏の血を引く (なおかつ藤原氏の血を引いていない)「蘇我の女たち」であって (※2)、
藤原氏の追い上げに対抗する形で元正天皇が擁立され、
外戚が蘇我系である長屋王一族への望みを託すなど、
蘇我系の皇族の継承を意図し続けたものの、長屋王一族が滅ぼされたことで願いは絶たれた、という新しいスタンスを提示しました。

(通説の言う、藤原氏が蘇我氏に取って代わる実権を持ち、皇位も藤原氏を外戚とする皇族に代わって行ったとする見方は結果論的には事実でしょうが、)
《藤原氏を外戚に持たない》持統・元明両帝と、特に (藤原系との関わりが先代以上に薄い [具体的に言えば、《藤原氏の力を借りる動機》であると見られることが多い《皇位につけたい子や孫》がいない]) 元正天皇が
《自らも属する蘇我系皇族 (長屋王一族等)》以上の待遇 (中継ぎ) を
専ら《藤原系のために》続けたのだ、と言うだけの従来の史観には、
当時の個々人のスタンスへの観点としても、史的経緯の分析としてすらも不自然さが否めません。

例えば、逆にそんなに《蘇我系皇族》が《藤原系皇族》のために尽力し続けたのなら、何故藤原系一族が「長屋王の変」(※3) で (蘇我系・非藤原系の) 長屋王・吉備皇女一族を滅亡に至らせる必要があったのか、やはりそこには対立や競合が有ったはずだと見るのが普通でしょう。

どこそこの氏族の血を引くかどうか、ということは単に《プライドや特権等の問題》であるだけでなく、当時は《血縁が異なる系統からの排斥の可能性》を含む、むしろ後者の方が深刻であったのではと感じる程の、無視し得ない問題です。

のし上がってくる藤原氏の血筋 (外戚) を、聖武天皇より前の皇族が持たずに
蘇我氏の血筋を有しているのであれば、藤原氏に融和的な策を取るだけでなく、蘇我系が安全に成り立つだけの何らかの策を打つはずであり、歴史家もその観点を含めて分析するのが自然だと思います。


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※1.
文武天皇 (軽皇子) の世代までは未だ藤原氏の血を引く皇族がいないものの、自分の子 (草壁皇子) と孫 (軽皇子=文武天皇) を皇位につけたいと願う鸕野讚良皇女 (天武天皇の皇后。草壁皇子の没後、即位 [持統天皇]) を、当時権勢を盛り返して来た藤原氏 (藤原不比等) がサポートし、そのつながりによって藤原不比等の娘宮古が文武天皇と結婚した、という経緯の理解が一般的に成されています。

※2.
持統天皇の母は蘇我倉山田石川麻呂を父とする遠智娘 (おちのいらつめ)、
元明天皇の母は同じく蘇我倉山田石川麻呂を父とする姪娘 (めいのいらつめ。遠智娘の妹)、
元正天皇の母は元明天皇であり、元正天皇の妹は長屋王の妃の吉備皇女。
(聖武より前の草壁皇子、文武天皇 [元正天皇の弟で吉備皇女の兄] や、長屋王一族も同様に外戚が「蘇我系・非藤原系」)

🔸持統天皇 (鸕野讃良皇女) / 父 天智天皇 (舒明天皇と斉明天皇 [皇極天皇] の皇子)・母 遠智娘 (蘇我倉山田石川麻呂の娘)
🔸草壁皇子 (岡宮天皇 [奈良時代後期の追祚]) / 父 天武天皇 (舒明天皇と斉明天皇 [皇極天皇] の皇子)・母 鸕野讃良皇女 (持統天皇)
🔸元明天皇 (阿閇皇女) / 父 天智天皇・母 姪娘 (蘇我倉山田石川麻呂の娘)
🔸文武天皇 (軽皇子) / 父 草壁皇子・母 阿閇皇女 (元明天皇)
🔸元正天皇 (氷高皇女) / 父 草壁皇子・母 阿閇皇女 (元明天皇)
🔸吉備皇女 / 父 草壁皇子・母 阿閇皇女 (元明天皇)。文武天皇と元正天皇の妹。長屋王の妃。
🔸長屋王 / 父 高市皇子 (天武天皇と尼子娘 [宗方徳善の娘] の子)・母 御名部皇女 (天智天皇と姪娘 [蘇我倉山田石川麻呂の娘] の子。元明天皇の姉)。吉備皇女の夫。
🔸聖武天皇 (首皇子) / 父 文武天皇・母 藤原宮古 (藤原不比等の娘)

※3.
永井路子は、「長屋王の変」(この名称自体には永井路子は、長屋王側はあくまで被害者であるとして、疑問を呈していますが) を、このように (外戚の点から) 天皇家の大転換点と見ているのですが、
実は永井路子の著述において、その見方は「美貌の女帝」が初めてではありません。

1970年発行の「薬師寺・唐招提寺」(保育社カラーブックス 入江泰吉・永井路子 共著) で永井路子は、聖武天皇の即位とその後の「長屋王の変」に至る経緯を、藤原氏の血を引く新しい天皇家への変化と捉えています。
(この著書では) その前は天智系と天武系による天皇家であったと見なしており、これは確かに (まさに1985年の「美貌の女帝」で「蘇我系」の概念が強く示されるまでは) 、長屋王やその祖父の天武天皇に関して「皇親派」「皇親政治」と呼ぶなど、聖武以前の時期についての一般的な理解でした。
「皇親派」「皇親政治」には、母も皇族である個々人が、特定の氏族の影響を受けずに政治を行うという意味があります。

15年後の「美貌の女帝」で「蘇我系」の概念が加わり、メインテーマとして出たことにより、藤原氏を外戚に持たない当時の皇族たちの状況が、より
緊迫したリアリティーを持って伝えられます。
それまでの史観にも大きな転換をうながす、本来は無視し得ない概念でした

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🐥 ひろせさんのTweet.

🐥 kisaさんのTweet.


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