「正しい肘塚」発見か! 玄昉僧正の肘塚・胴塚伝承地 Photograph

画像1 玄昉 (げんぼう) 僧正が藤原広嗣の霊に掴み上げられ、空から降ってきた腕の塚との伝説がある肘塚 (かいなづか) 伝承地 (の一つ) の南面。四つ辻の南東にあります。町名 (肘塚 [かいのつか] 町) の由来になっていますが、この地点は「椚神社」(くぬぎじんじゃ) の表示のみとなっていて、ウィキペディアにも「椚神社」の記事は有りますが [🔍 https://ja.wikipedia.org/wiki/椚神社 ]、弘法大師が立てた杖が椚の木となった等の記述で、玄昉僧正のことは書かれていません。
画像2
画像3 いわゆる奈良町 (ならまち) の南辺にあり、古代の南北の官道上ツ道 (かみつみち) に沿って祠が南面しています。
画像4 南西方向からの画像。この画像は本記事での他の写真を撮ってから1年後の6月に奈良町を歩いていると、ここまで偶々来て撮ったもので、奈良町中心部から意外に近いと感じました。ここへの初来訪はJR奈良駅から京終駅への電車だったので遠く感じたのですが。6月18日は玄昉僧正の命日とのこと。
画像5 記事写真2017年6月13日 [コンデジ], 2018年6月14日 [南西面 一眼レフ] 撮影
画像6 春日若宮社 (中辻町)。椚神社から上ツ道 (上街道) を北上して数分。「奈良坊目拙解」(江戸時代中期 [1735年] 村井古道著) に「春日神社 在肘塚松樹本」とあるのが当社と言われます。玄昉伝承地群は興福寺を囲んで守る結界とする説 (狭川真一氏) があります。 たしかに興福寺を中心に考えると、春日若宮社 (移動している可能性もありますが) と興福寺中金堂をつなぐ線を線対称に東へ映した辺りに弁天社があり、他にも幾つかの対称が見て取れます。 (2018年6月14日撮影 / 3月10日 記事に追加)
画像7 上述の、春日若宮社と興福寺中金堂をつなぐ線を線対称に東へ映した辺りに有る弁天社 (北面 / 紀寺町 / 2018年6月14日撮影)。
画像8 稲荷社 (画面右の集会所の裏 [北]、画面左 )。上述の春日若宮社から歩いて2分ほど (南西だったと記憶します。グーグルマップの航空写真でその辺り [中辻町の南西部] に類似の建物は見えるものの、ストリートビューもここまでの道 [画面右下] が細くて手前までしか来てません。地図にもその位置に稲荷社の表記が出ません。) / 訂正 [画面左下]→[画面右下]
画像9 同。扁額に海造稲荷大明神とあります。同名の神社が中辻町の北辺に有った紀州屋敷から中辻南方町に移されたとのこと。この写真の神社と考えられます。
画像10 同。「奈良坊目拙解」等に、肘塚の所在地は正しくは中辻町西側会所の裏の路傍、と記され (📖 ブログ内「奈良坊目拙解」リンク記事 https://note.com/artandmovie/n/ne39e183b25a2 /, 🔍ウィキペディア『春日若宮社』, 参照) 、江戸時代の会所がこの位置とすると、ここが「肘塚」では。「春日神社」は火災後に遷されたとの記述があり (「奈良坊目拙解」等)、その後に同地に稲荷社が移ってきたのかもしれません。 (2018年6月14日撮影)
画像11 紀州屋敷跡 (中辻町) 解説板 (2018年6月14日撮影)
画像12 (関連追加画像) 画面奥 (西奥) は玄昉僧正伝説の「胴塚弁天」。東面の入口は画面では右に隠れています。表示は全くありませんでした。近くで撮った写真 (他に「眉目塚」がある崇徳寺の閉じた門前、「頭塔」の写真等) もあるので探してみます。東大寺戒壇院前の南北道と (同院門前から50m強の辺りで) 直交し、ほぼ真西へ向かう舗装道 (2019年) 。手前の下水門橋 (尼橋) は「尼の妖怪伝説」も有り、流れる吉城川は南 (画面左方向) で入江泰吉旧居のすぐ西に接しています (2019年2月16日撮影)。
画像13 上の道を逆方向 (西) から見た図。画面の突き当たりで左 (北) へ行くと東大寺戒壇院があります。
画像14 (追加画像) 上述の胴塚弁天 正面 (東面)。サルスベリが咲いています (2016年9月撮影)。肘塚の由来が貝塚、眉目山が豆山 (或いは前方後円墳?) だとすると、胴塚は大仏鋳造時の残った「銅」の塚? 大仏殿の西隣から鋳造時の設備が出土しましたが、胴塚の辺りからは出ないでしょうか。
画像15 同。「肘塚」と同じく、塚としての墳丘などの形跡は全く見当たりませんが、北側・東側より高めの地形となっていることは分かります。
画像16 東向きの社殿の向かって右前に、弁天社、水門村と刻字された灯篭が有りますね。今の行政区画では水門町となっています。
画像17 社殿の棟に瓦が載っているのが特徴的。弁才天は社寺双方で祀られること、玄昉が仏教指導者であること、東大寺旧境内という立地等に基づいて、仏教建築に多い瓦も使っているのかもしれません。 (4日10時追加画像) / 胴塚伝承地は新薬師寺南西隣の鏡神社前にも (福祉施設との間の僅かに盛り上がった草地として) 有るとのこと。
画像18 奈良町周辺に多い伝承地は陰陽師が定めたという説があります。陰陽師たちが住んでいたといわれる陰陽町 (いんようちょう) の解説板。
画像19 陰陽師の守護神とされる鎮宅霊符神社 (陰陽町)
画像20 南城戸町から東隣の陰陽町へ向かう坂道 / 📖ブログ内陰陽町関連記事 [陰陽町への坂記事] https://note.com/artandmovie/n/n48bece168871 , [安倍晴明記事] https://note.com/artandmovie/n/n13468056df47
画像21 福智院 (奈良市). 前身寺院の平城清水寺が玄昉僧正の創建と言われます。
画像22 福智院の境内に玄昉僧正の顕彰碑があります。 / 2018年3月29日撮影 (陰陽町・福智院) / 📖 ブログ内関連記事 (21年6月) https://note.com/artandmovie/n/ne39e183b25a2 /

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?