崇福寺跡・梵釈寺跡 Photograph

画像1 崇福寺跡 (すうふくじあと 滋賀県大津市 国史跡) での鎮魂供養祭 (2019年度)。近江神宮と三井寺が合同で1989年から毎年5月17日に実施 (コロナ禍と雨天のため2020年, 2021年は近江神宮で行なったとのこと)。崇福寺 (すうふくじ) は668年に天智天皇が創建。室町時代まで存続。
画像2 崇福寺塔跡に置かれた鎮魂供養祭の供物。
画像3 崇福寺塔跡 (西からの画面)
画像4 「中尾根」の狭い頂き一杯に残る、崇福寺の塔跡 (画面奥 [東]) と小金堂跡 (手前)。西からの画面。塔跡からは昭和13年-14年の発掘で心礎と、日本最古の鋳貨「無文銀銭」等の心礎納置品 (国宝) が見つかっています。📖 ブログ内関連記事 https://note.com/artandmovie/n/n12c03eec62d9 /
画像5 同。塔跡 (画面手前) と小金堂跡 (画面奥)。東からの画面。四天柱の礎石は見えますが、その中心に位置する心礎石は土中に有ります。
画像6 同。塔跡の瓦片
画像7 中尾根の小金堂跡南横の、一人通れるほどの隙間 (画面右) から南崖を見たところ。
画像8 「崇福寺跡」の南隣りの丘陵 (南尾根) にある遺跡が奈良時代末期の「梵釈寺跡」と認定されています。しかし明治 (43年) の頃は喜田貞吉らにより一帯の「滋賀山中遺跡」全体が飛鳥時代後期の「崇福寺跡」とされ、南尾根の金堂跡に崇福寺舊址 (旧跡 きゅうし) と記した石碑が建っています (写真。東からの画面)。昭和13-14年の調査で、南尾根と北・中尾根の遺跡の方位がすこし異なっていると判明したことから、二つの寺院跡と見なされました。
画像9 上画像の金堂跡に建つ石碑の向かって右手前の礎石 (画面右下)。中央に柱を固定するホゾが彫り出され、秋篠寺、西大寺など奈良時代後期寺院でよく見る形式を示しています。画面奥 (東方向) が講堂跡。その画面左の辺りに経蔵跡 (推定)。カエデの新緑が映え、紅葉の頃もいい景色でしょうね。
画像10 南尾根 (梵釈寺跡) の金堂跡 (手前) と講堂跡 (左奥)。中尾根方向から上がってくると、こう見えます (北西からの画面)。南の庇らしき遺構から、金堂講堂は横並びで南向きと考えられます。変則的な配置ですね。
画像11 北尾根の弥勒堂跡 (画面手前) と未解明の建造物跡 (奥)。 南西からの画面。
画像12 北尾根の弥勒堂跡 (北東から)
画像13 北尾根の未解明建造物跡から弥勒堂跡を望む (北東からの画面)。
画像14 北尾根の解説板
画像15 弥勒堂跡の瓦片
画像16 崇福寺跡の中尾根と北尾根 (弥勒堂跡など) 間のルートにある金仙滝 (高さ約4m) と石室。天智天皇が洞窟に住む仙人と出会い寺地を定めたとの伝説があり、滝の名の由来と考えられます。石室の奥行きは浅く床は傾斜があり、滝がすこし流れ込んでいます。
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画像19 崇福寺跡の山麓にある百穴古墳群 (古墳時代後期。「崇福寺跡内」として国史跡) の石室の一つ。
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画像21 崇福寺跡への山道にある石仏「志賀の大仏」(しがのおぼとけ 約3メートル 鎌倉時代)
画像22 崇福寺跡の南東約1キロにある南滋賀町廃寺跡 (国史跡)。白鳳期の瓦が出土した一方、史料の記述からここが崇福寺・梵釈寺跡とは見なされづらく、近江京より後の名称不明の寺院跡とされていますが、明治期の喜田貞吉説以来、ここを梵釈寺跡とする見解も有ります。奥 (東方) に見えるのは琵琶湖。
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画像24 南滋賀町廃寺の塔跡
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画像26 同 塔跡の心礎石
画像27 同。
画像28 同 塔跡のおそらく瓦片。 / 2019年5月17日撮影 / 18日19日26日更新 / 📖 ブログ内近江京関連記事 https://note.com/artandmovie/n/n73bea5913c15 /

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