ハナヒカリ


「星が綺麗だね」
藍色に濁る空に心を許していたら、ふと隣から話しかけられた。いつも聞いている声なのに、世界に初めて落ちてきた朝の雫のように、芯を持って鼓膜の奥に落ちていく。この感情に名前が無いのが世界の良いところだ。
 両の目をぎゅっと絞って空を覗いてみる。視界には依然として藍色の闇が広がっていた。
「私にはどれだけ目を凝らしても何も見えないわ。あなたには星が見えるの」
少し訝しんで尋ねると、あなたはその間合いさえ包み込むように穏やかな呼吸をひとつした。
「うん、よく輝いているよ、とはいえひとつも名前はわからないけれど」
「星に名前なんてない、人間が勝手にそう呼ぶだけ」
少し尖った声で私は返す。こんな状況でも私はいつまで経っても子供のままで、どれだけ手を伸ばしたってあなたには届きそうもない。そんな私の心を見透かしてか、あなたは少しおどけた調子で答える。
「これは一本取られたな。それじゃあ、僕の名前も君が勝手にそう呼ぶだけのもの、ということになるのかな」
「それは違う」
咄嗟に反論してしまったのもきっとあなたの手のひらの上だ。
「あなたの名前の響きにはただのシンボル以上の輝きがある」
そこまで言うと私は恥ずかしくなってしまって、いよいよ空の方をキッと睨むように見上げるしかなかった。目が暗闇に慣れてきてもやはり星は見えず、それでも諦めずに見つめ続けていると代わりに夜空に奥行きを感じるようになった。何層にも折り重なった色が今か今かと私に見つけられるのを待っている。ノンバーバルな混沌だと思い込んでいた闇は、黒から青、そして青から赤へと色を変えていった。そこにはまるで季節を上から眺めて操っているような高揚感があった。五感は徐々に研ぎ澄まされていき、そのうちに私の目と、地球と、そして宇宙とが繋がっているような不思議な感覚がやってきた。私はなんだか嬉しくなって、でもその感情が悟られないように凛としたまま、目だけを横に流してあなたの横顔を一瞥する。
 隣ではあなたも同じように宇宙と繋がっていた。あなたの目は、泣いていた。私たちは宇宙をへその緒にしてお互いを生かしあっていた。

 言葉が何かを壊してしまいそうな滑らかな沈黙を、あなたの口調はいとも容易く包み込み溶かしていった。そこに数分の静寂があったことなどあなたの息継ぎの前では朧げな一欠片に成り下がってしまう。
「もう筆は持たないのかい」
責め立てるような冷たさも全てを放棄する優しさも持たず、放たれた矢のように、ただ意味だけが一厘の無駄もなく私に届いた。理想郷があるとするならば間違いなくこの矢の上に乗っている。
「持てないの」
私の声はどれだけか細く聞こえただろう。自分で思っているより何倍も小さな掠れ声がどうにか世界に産み落とされた。へその緒はまだ繋がったままだ。
「何か大きなきっかけがあったわけではなくて、きっと日々の磨耗みたいなものが原因だと思う。私は私のまま、でも少しずつ私じゃなくなってしまった」
私は私のまま、でも少しずつ私じゃなくなってしまった。自分で放った言葉が跳ね返ってきて、また行ってを繰り返した。そのうちに意味を受け取る私の心の色も少しずつ変わっていく。私は絵の描けなくなった絵描きだった。
「こんな情けない自分で、自分のことすら好きになれない自分であなたに会いたくなかった」
会いたいと言ったのは私の方なのに、おかしな話だ。おかしすぎて涙が溢れてくる。
 潤んだ目で捉えたあなたは困った顔をしていた。私が困らせているのだから当然だ。
「弱ったなあ。今日は丁度ハンカチを忘れてしまって」
悪いのは私なのに、ハンカチが悪者を買って出た。申し訳ないような、でもそれだけで少し救われたような。そしてあなたはハンカチの代わりに、上着の内ポケットからノートと黒のボールペンを取り出した。僕には芸術のことはあまりわからないけれど、と前置きして、あなたはノートの新しいページに出鱈目な線を描き殴った。
「はい、これで完成」
10秒で完成させた絵を千切って私に差し出す。私が両の手でそれを受け取ろうとしたその瞬間、あなたはいたずらっぽく笑って差し出した手を引っ込めてしまった。
「今の絵は10万円だよ」
おどけて言ってみせても私は納得しない。
「どうして10秒で描いた絵に10万円も払わなきゃいけないの」
ふざけたような、それでいて怒っているような口調で問い質すと、あなたは逆にとても真剣な表情になって答えた。眉毛の先がキッと釣り上がる。
「僕は10秒でこの絵を描いたわけじゃないから」
時間を静止させてしまうほど強い語気だった。私はびっくりして軽く身を引いてしまう。
「僕は今まで生きて積み重ねてきた23年と50日の人生全ての結果としてこの絵を描いた。だから、この絵は23年と50日と10秒で完成したんだ。ねえ、芸術ってそういうものでしょう」
私は、どうしてあなたが芸術家でないのか不思議に思った。こんなことを言える人間がそうなれないのなら、どう考えたって世界の方が間違っている。あなたの生きられない世界は、間違っている。
「まあ、そんなこと言っても間違いなく僕の絵は駄作だけれどね」
そう言ってあなたは今日一の笑顔をみせた。
「けれど、君は違う。素晴らしい作品を描き上げる才能がある。君自身と、君の絵をずっと見てきた僕にはわかる。君が筆を持てなくなってしまったこの時間も、次の作品を生み出すための掛け替えのない過程なんだ」
「だから、そんなに自分を責めないで、ね?」
あなたはもう一度笑った。その長い睫毛の先から華奢な指の先まで、あなたを構成する細胞の全てが銀色に光っていた。あなたは銀色の少年だった。

 それから3年が経ち、私は再び筆をとった。描き始めてみると何てことはなく、ほんの数時間で絵は完成した。よくやった。よくやったけれど、あれだけ絵に向き合えなかったのは何だったのだろう。自分を殴りたいような、頭を撫でて労いたいような、複雑な感情が私の中にあった。
 空の絵だった。青、紫、赤、橙。幾重に塗りつぶした暗闇は人の世だ。艶やかな主張の帯は渦を巻き、それぞれが複雑に交差することで一幕の混沌に成り下がる。混沌の行く末は戦争だ。出口のない迷路。砂塵と鉄の匂い。そこにあるのは、殺す者と殺される者だけ。やがて、殺す者も殺される者に変わっていく。
「戦争に行けと言われてから、あらゆるものが美しく見えるんだ。今まで気がつかなかったような些細なこと、例えばシロツメクサの葉につく朝露の一滴でさえ逃さずに捉えることができる。死が近い、ということは人間をこんなにも豊かにするということを僕は知ってしまった。皮肉なものだよね」
夜空を見上げる私たちの頭上を、その日何機目かの戦闘機が通過していった。轟音にかき消されて私の存在など取るに足らない塵に変わってしまいそうだ。いや、実際にあの機械は私たちを塵に変える機能を有している。
「彼らは何を考えているのだろうね」
あなたは怒っていた。それは自分に降りかかる不条理に対してではなく、自分が誰かの不条理を生み出すための片棒を担がなければいけない事に対しての怒りだった。
「どうしてかあんなくだらない議論をしているだけの彼らはクリスマスにシチメンチョウを食べている。戦場にクリスマスはないのに、だ。テロとは、パンと水の問題であるのに、いつしかイデオロギーや宗教の対立であるかのようにすり替えられている。生きるために地面を歩き回っている人たちが藁のように簡単に死んでいって、殺すために空を飛び回っている人たちが正義と呼ばれる。正義とはなんなのだろう。僕は明日から正義の一翼を担わなきゃいけないのかい」
私はあなたを抱きしめた。その華奢な体が折れないように繊細に、それでも力強くあなたの背中を包み込んだ。
「この世に正義なんてないわ。人間が勝手にそう呼ぶだけ」
あなたは、いつまでもあなたでいて。
 肩のあたりに体温が伝い落ちていくのを感じた。その暖かさがいつまでも枯れずに沸き続ければ良いと心から願う。
「さっき、君の人生の時間は絵を描くための過程だという話をしたでしょう。同じ風に考えたら、僕の23年間は、人を殺すために存在したってことになるよね。僕はそのことに今、気がついてしまったんだ」
私は戦争が憎かった。誰よりも優しいあなたを怒らせる政府が憎かった。あなたを泣かせる赤丸が憎かった。あなたを人殺しに変えてしまう戦闘機が憎かった。あなたを塵に変えてしまう戦闘機が憎かった。そして今、空を裂く爆音を残して飛んでいったあの戦闘機が、憎くて仕方がなかった。
 あなたを苦しめる全てを私が壊してあげるから。あんな戦闘機、全部私が壊してあげるから。だから、お願いだから、行かないで。

 瞼を持ち上げると、目の前には描き上げたばかりの絵があった。件の戦争は3ヶ月前に過ぎ去った。ようやく入国が許されるようになり、私はあなたが戦死した街で筆をとった。
 路地では痩せ細った黒猫が、昨日の雨で道の端に溜まった水を舐めている。そしてその上を何処かの国の旅客機が通過し、黒猫も水溜りも全てを影の中に隠してしまう。私は過ぎ去っていく巨大な鉄の塊に向かって、透明な銃口を突きつけた。
 今は戦前です、わかりますか。
 それから銀色の絵の具で、キャンバスの空に一筋の光を落とす。あの日見えなかった星が目の前で23年分の輝きを放っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?