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三島喜美代−未来への記憶–@練馬区立美術館

直島で見ていた三島喜美代さんの大きな大きなゴミ箱。
展示会が練馬区立美術館でやるというので見に行ってきました。
この記事は美術館に記載の内容の転記と、私の感想です。

土を紙のように薄く伸ばし、シルクスクリーンや手書きによって陶土の表面に新聞やチラシの文字を転して焼成するーこの技法によって三島は立体作品「割れる印刷物」を生み出し、半世紀にわたり独自の表現として展開してきた。紙に印刷された情報を陶に写し替える自らの制作行為を、三島は「情報の化石化」と呼ぶ。硬く安定しているかに見えながら、扱いによってはく割れやすい陶は、三島にとっては、日々大量に作られては捨てられていく印刷物と組み合わせることによって、不安感や恐怖感を表現するのにうってつけの素材となった。

割れる印刷物は、新聞やチラシ、コミックから始まり、段ボール、フィルム、紙袋、封筒、飲料ボトルなど身の回りの様々な日用品に及んだ。それらの多くは実物大に近く、一見すると本物と見紛うほどで、遊び心やユーモアを感じさせる。しかし、だまし絵的なオブジェを作ることが三島の主眼ではない。日常生活にあるものを、異化作用を通して、情報洪水の危機や不安を顕在化させ、再認識させるところに三島の挑戦があった。1980年代以降、三島は作品を巨大化して、見る者の視点にさらに揺さぶりをかける。陶による異化作用を経てもなお、紙の薄さや質感はそのままに緊張感をはらんでいた新聞紙の作品(caps.23-29)は、モニュメンタルな彫刻へと変貌した(caps.47,48)。作品の巨大化は、この後壮大なスケールによるインスタレーションやパブリックアートというかたちをとって、三島の代表作へとつながっていく。 

細長い檻のような中に、よじれたり、まるめられて無造作に放り込まれた新聞は、読み終わってゴミとなったものであろうか。ただし、これらはすべて陶による新聞作品。

シルクスクリーン転写により、紙面が紙から陶へ写し換えられている。情報もゴミになることが視覚化されているが、情報の封じ込めへの恐怖感も感じられ、大量消費社会・情報化社会への作家のシニカルな視線が感じられる。三島の陶によるオブジェは当初は実物大に近く、一見すると本物と見紛うほどであったが、1980年代以降、作品は巨大化する。同じ新聞作品でも、胎弱さが表現された初期作品(caps. 23~26ほか)に比べると、本作品は新聞紙らしからぬ厚みも加わって、頑丈でモニュメンタルな彫刻に変貌している。この作品の発表時は、新聞で作りつづけることの意味を否定的に問う声も出たが、作品は情報化社会への批評を象徴的に示すものであった。

1980年代中頃に始まる大規模なインスタレーションによって、三島作品の巨大化は頂点に達した。その代表作く20世紀の記憶>(cap.82)は、約200平方メートルの床一面に、使い古した耐火レンガ・ブロック1万個余りをぎっしり敷き詰めている。各レンガの表面には三島が20世紀の100年間から抜き出した新聞記事が転写され、文字通り20世紀の記憶の断片が視覚化されるとともに、その時代に向き合った彼女自身の記憶が刻まれているように思われる。不揃いのレンガによって眼前に広がる沈黙の風景は、時が凍結したかのようであり、情報洪水に飲み込まれたSF風終末世界のようにも、戦争によって焼け野原になってしまった都市の廃墟にも見える。ともあれ、先行きが不透明な現代という時代にあって、三島が刻印した20世紀の記憶を、来るべき未来への記憶として改めて受け止めていただければ幸いである。ちなみにこの作品は、普段は東京のART FACTORY城南島に常設展示されている。

インタビュー動画で本当は医者になりたかったけど親から反対されてとりあえず絵を描いてみたらこんな方法もあるね!と言われて、面白く感じてずっと絵を描いてるってお話されてました。今後も自分がおもしろいっておもったものを表現したいって語る三島さん。

単純に
めちゃかっこええやん
って思っていました。

私が時間を忘れて没頭できることってなんだろう。
私の楽しいことってなに??そんな好きに出会って、自分の好きをどうどうと表現できるような人になりたいなと思いました。

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