未成年④

三日目(Tuesday)

 

 まだ陽は昇っていない。一度目が覚めてしまってからまだ数時間しか経っていない。今日は仕事がないことになっている。しかしここでまたまぶたを閉じてしまえば昼過ぎまで寝てしまうに決まっているので、起きない訳にはいかない。渚を起こさないように気を付け、僕はそっとベッドを出る。当然のことながら寝覚めはすこぶる悪い。夢の中でのあれこれが頭の中をちらちらする。今、兄は起きているだろうか?それとも深い眠りの中で何かを夢見て……やめるんだ。僕はそう思い、首を思い切り左右に振る。意味不明なポーラロン、それはすべてが徒労だ。朝からリリカルな殊死への階段を上るようなことに頭を使うのはよそう。

  せっかくこんなに早く起きたのだからと、僕は散歩をすることにした。たまにはのんびり歩くのだっていいだろう。それにしても、朝の空気は心地いいと言う人がいるが僕はそうは思わない。あの清漣な風の息遣いは、どうしてだか知らないが毎度僕を責めているような感じがする。それでも僕は飢えたルインに思い切り空気を吸い込む。決定的な三段論法に地道な揺さぶりをかけるような気分で、あせることもはやることもなく歩き続ける。
まだ覚醒し切っていない街の中を泳ぐように歩いていると、この見えない群衆の一部であるということを不意に感じてむなしくなった。僕の周りを取り巻く不可視のクラッドが困り抜いた状況をさらに悪化させるように揺れ、いつか不純箱の中で見た白と黒だけの世界が目の前をゆっくりと横切る。僕は迷っている。そうだ、僕は迷うことに迷っているんだ。そんなことに気付きながらぼんやりとアスファルトの色を眺めた。
 数え切れないほどの嘘をつきながらいつかを期待しているだけの僕は、自分をこのあたりの他人と比べてみてもいいのだろうか。他人と自分を切り取って比較すれば、僕の劣等性はさらに色強くなるのではないか?僕は僕であり僕以外の何者でもないのだという決定的事実が薄れていく。つまりそれは自らの意図するものとの訣別を意味している。
 それ以上考えると本当に狂才が威光を増してしまうので、僕は重々しい十字架を無理矢理引きずり下ろす。そして思考をまったく別の方向に持っていこうとする。そう、現実の周囲に目を向けてみるのだ。たとえば、この街を歩いているとあちらこちらにあるものがある。それは建物や壁につけられた四角く白いプレートだ。ごく単純に描かれた赤い折り鶴の絵と共にこう書いてある――『被爆国首相よ 八月六日九日を人類総ザンゲの日として 休日に制定せよ』……いつ頃からあるのかわからないが、僕が物心ついた時には当然あった。サイズもデザインも申し分ないし、とても粋な主張の方法だと思う。ただ一つの問題は、どこにもかしこにもあるのでもはや誰もまったく目に留めない、ということだ。一区画に二つあるところもある。これではあまりにも多い。そんなことを思いながら、これと同じもの、あるいは似たようなものが長崎にもあるのだろうか、とふと考える。それにしても、僕は姉妹友好都市の長崎の人々を勝手に知人友人のように思っているが、あちらの方はどうなのだろう?そもそも姉妹都市なんてことを意識するということ自体がないのか。そういえばこの間ニュースで、同じく広島の姉妹都市のある市で反日デモが行われ、これでもかとばかりに日章旗を燃やしている映像が流れていたっけ。まばたきすら出来ないスタンピードに急速回転させられるようで日章旗が不憫だし、あれは随分むなしい気がした……そんなことを考えているうちに、かなり遠くへ来た。腕時計を忘れたが携帯電話は持ってきていたので、それで時刻を確認する。ここらあたりで引き返せばちょうどよい頃合いになるだろうと思われたので、僕は来た道を帰ることにした。雲を数える係は理に適っているが、なかなかそれは認められない。

  ***

  あてのない散歩は楽しかったし、また有意義だった。いや、有意義というと過言かもしれない。でも少なくとも僕は青いラッパの音を聴いて満足した。だからそれでいいだろうと思いながら、僕は同一律と矛盾律のはざまを通り抜け、渚の待つ部屋に帰った(出かける時に『おはよう。すぐ戻る』と置き手紙を書いていたので、何も心配はいらなかった。)。
「お帰りー、お兄ちゃん」
「ただいま」
「今日も天気がいいみたいだね」
 僕は頷く。本当のところは、色々と考えていたせいで空の様子まで気が回っていなかったのだが。
「あ、そうそう、昨日言い忘れたんだけど。突然なんだけど、植物の事典か図鑑って持ってないよね?」
「持ってない。悪いけど」
 少しも悪いとは思わずに僕はそう答える。
「まあ、図鑑なんか普段必要ないもんね。いつもとちょっと違う道を通ったらね、そしたら、知らない花が咲いてて。名前がわかんなかったから」
「おまえ、本当に花が好きなんだな」
「うん。全部が全部好きって訳じゃないけど。通学路にね、花壇があるんだけど。すごくいろんな色のヴィオラが咲いててね、とっても綺麗なの」
「ヴィオラ……楽器みたいな名前だな」
 みたいな、というよりそのものだ。楽器の方はたぶんイタリア語だが、花の方は“スミレ”という意味のフランス語・ヴィオレから来ているような気がする。
「そうだよね。まあ、パンジーなんだけど。パンジーとヴィオラの違いって、大きさだけなんだよ」
「クジラとイルカの違いみたいなもんか」
「そうだよ。あれ、分類がすごくややこしいんだよね。そもそもイルカ自体がクジラ類だっていうし。大体四メートルくらいでクジラとイルカに分かれるとか……」
 僕は頷いたが、四メートルとかいう部分までは知らなかった。渚がさらりと数字まで言うので少し驚いていた。
「……そういえば小学生の頃、一人一鉢ずつ植物を育てなきゃいけなくて、その時僕はパンジーだった」
「ふうん。何色?」
「ああ……紫に近い紺色」
 散文的な様子を見せる小さな鉢の中に、夢を追うだけのストラクチャーの小さな花が咲いた時のことを思い出しながら答えた。
「でも、僕のはうまく咲かなかった。他のやつのはいくつか花をつけてたけど、僕は咲いたのは一つだけだった」
「そりゃあ、面倒だなあとか思いながらお世話してたんでしょ」
「当たり前だろ。僕は、あの生活科っていうのが嫌で嫌でたまらなかったんだ」
 嫌で嫌でたまらないことなんて、十九の今でもほとんどないというのに、あの生活科という教科は本当に嫌で嫌でたまらなかった。
「うわあ、生活……すごくなつかしい響きだなあ。あったよね、生活って。理科が始まるまであったんだっけ……もう小学校の頃のことなんてよく覚えてないよ」
「あの科目はとにかくやっかいだったよ。生物を飼育しようとか。渚もあったか?」
「うーん、あったような気もする……」
 渚は真剣に考え込み、首をひねっている。
「とにかく、ああいう教育を六、七歳のガキにする理由がわからないんだよな、正直なところ。花だって、無理矢理育てさせて植物をいつくしむ心なんか生まれるか?押しつけられて反抗心が出るのが落ちだ」
「それは確かにそうかも。あたしだって教育されて花が好きになった訳じゃないしね……押しつけられたら反抗心が生まれるのって、よくわかるもん。やっちゃいけませんって言われたらやりたくなるのの逆でしょ。そういうものは、学校で教えるべきじゃないのかもね」
「そうだろ。そう思うだろ。絶対にそうだと思う」
 こんなことを言ってもどうしようもないということはわかっているが、どうにもこの思いはぬぐえなかった。当時から思っていたことなのだ。文部科学省かどこかに直訴しないだけで。
「でも、学校で習うことってほとんどがややこしくてよくわかんないようなことばっかりだよ。学校を出てから、そのことをどういう風に活用していったらいいのか全っ然わかんないもん」
「それはその通りだ」
「あったらいいなと思う科目は美術だけだよ、あたしは」
 今の僕としてはかなり同感だけれど、「そうだそうだ」とはこの状況では言えない、僕の性格上。
「それは専門学校に行けばいいだけの話だろ」
「まあね。でも、どうせなら小中の義務教育で教えて欲しいじゃない。義務教育って大事だよ」
「まあ、それはそうだよな……」
「ねー。あ、そういえば小学校の頃は美術ってなかったんだよね。図工だったんだ」
 渚はそう自分で言って自分で頷いている。図画工作か……それこそなつかしい。

  学ぶという義務、そして権利。その根本は一体何なのか?学校というものは重要な本質を何かしら散点させている気がする。それが止めることの出来ないパンデミックのごとく侵食を続け、もはやどこから始まったのかさえわからない状態だ。それは人間としての傲慢とまったく変わらない。つまり、きわめて限られた中で決めつけたことをすべての人に当てはめるということ、しかもなおかつ不可避な真理を差し置いていること、それらの上に学校は成り立っている。なんといっても一番腹立たしいのは『道徳』という授業だ。規範としての倫理、それは教え込むべきことなのか?学校という公的な場で教えることが絶対的に必要か?思想の自由などあったものではない。それでは宗教と同じではないか。十歳にも満たない頃からの洗脳。いくら社会を構成する一人として教えるべきことだと言ったにしても、感情に名を付け、良心という綺麗ごとに仕立て上げ、これが正しいことなのだ、守るべきものなのだ、と植えつけることは決してよろしくない。“こういう時、どうしますか?”という提起のあと、“こうするのがいいですね”という解答を用意しているのがそもそもの間違いなのだ。ごく限られた人間が書き上げた正義を盾と矛にし、責任転嫁の教育権を偽りの義旗とすること――それがこの日本社会の輪郭を描いているということを一体誰が考えているだろう?

  ***

  先程電話をかけてみたら、夕方から空いていると青山は言った。「ぜひ会おう!夕方が楽しみだ!」とのことだ。なのでしばらくは勝手に過ごせることになった。とにかく時間になるのを待とうということだ。そこで僕は久し振りに、裏通りの角にある古書店に来た。いらっしゃい、という店主の老人の声が聞こえてくる。僕はそれに会釈で応じる。
「久し振りだな、あんた」
「はい」
 枝葉の多過ぎる説明をゆるやかなカーブで修正するように老人は頷く。
「この間、引っ越しで本を全部買い取ってくれって人がいてな、文庫本がかなり入った。そこだ。まだ値札をつけてないが、見て構わない」
「ああ、ありがとうございます」
「仕事の方はどうだ」
「相変わらずです。なんとかやってますよ」
 答えた僕の声にはどうも疲弊が表れていたようだ。いや、今の疲弊は仕事によるものではなくあの隣りのふざけたガキのせいなんだけれど。
「若いうちはどうしても、仕事が嫌だろうな」
「まあ、そうですね」
「だがあんたは頑張っている」
 僕は苦笑し、同じ言葉をもう一度言う。
「まあ、そうですね」
「頑張る若者は偉い」
 そんなやや不明なことを口にするこの老人は、端から見るとただ喋り好きで本好きな八十代。若い頃は関東やら九州やら各地を転々としていたそうだ。仕事の為だが、その仕事というのがあまりよろしくない。一言で言えば密輸、不法取引……商品は違法薬物から動物まで。動物というのは、別にひよこやなんかのことではない。高値で売買されるものに限定される。つまり、希少性のある動物や輸入が禁止されている動物。それと……人間。人身売買などという確固たるノトーリアスな悪夢がこの国にあるのかと思ったけれど、老人の話ではそんなことはない方がありえないらしい。
「もちろん、日本でそういったことは非公認だ。しかしどこの国だっていつの時代だって、人間は売り物になる。どういう意味かわかるな?需要があるから売れるんだ。……私はそういう仕事に関わっていた頃、金が欲しくて欲しくてならなかった。ありとあらゆる仕事をやった。直接手を下して人を殺したことはないが、私のせいで死んだ者は大勢いると思っている。今ではな。当時はなんとも思っていなかったが」
 古書店へ何度か通うようになった頃、老人が語ったことだ。その独白を僕は忘れられない。需要があるから売れるんだ――それを信じられないような気持ちで聞いたこと。自分がどれだけ平和な一生を送っているかということを考えさせられた。
「金っていうのは、ガイアなのさ」
「ガイア?」
「ギリシア神話の大地の女神、始まりの女神だ。天だって海だってガイアが生み出した」
「ああ……はい」
 老人はレイザリウムの中にあふれる自己迷惑にスイッチを押すようにため息をついた。
「ガイアは強い。しかしとてつもなく恐ろしい。金もまったくしかり。そういうことだ」
「強い、しかし恐ろしい……」
「そうだ。その事実を知っている人間はほとんどいない。知ったような気でいるのんきな人間は、いくらでもいるがな」
 僕は当然のごとくのんきな人間なんだろう、と思った。特にこの老人から見れば、まだ赤子のようなものだろう。
「なぜ今、古本屋をしてるんですか」
 そんなあやしげな仕事を続けていた人が、古書店の店主……どうにも信じられない転身だ。
「元々私は広島ここの人間でな。故郷などとうの昔に捨てたつもりになっていたが……いわゆる人の道から外れた仕事から足を洗った時、なぜか急に戻りたくなったんだ。それでのこのこと戻ってきた訳だ。もうこの先はのんびりとやれる仕事をしようと思っていたし、昔から本が好きだったから、この店を始めた。儲けなどは気にしていないんだ。もう金が欲しくてたまらんというようなことはない」
「だからこんなに安いんですか?」
「嬉しいだろう?」
「ええ」
 老人は頷き、跛行本位制になり替わる為の隘路を通ったような表情をしてみせる。
「私はな、読書をするのに金がかかるというのがどうにも許せないんだ。本ほど知識欲を締めつけるものはない。確かに図書館ならタダだが、でもそれは借りるだけだ。しかもごく一時的にな。やはり本好きとしては、本は所有したいものだろう?」
 おっしゃる通り、と思いながら僕は頷く。本というのは読むものだし、読んでから感じることだ。だけどやはり最終的には、好きな本は手元に欲しいと思ってしまうものなのである。
「最近は図書館の本を盗んだりページを切り取ったりする輩がよくいるそうだが」
「そうらしいですね。信じがたいというかなんというか……」
「実に嘆かわしい世界になったものだ。だが、あまり私が言えたものではないな」
 老人は手首を揉みながら苦笑する。あまり気にしていなかったが、やはりそこここの関節が痛むのかもしれない。まあ、八十を越えているのだから当然と言えば当然だ。たぶん僕だってその歳になれば(というか、その歳まで生きていれば)身体のあすこが痛いここがうずく、という状況になっているはずなのだ。
「言えたものではないって……それはどういうことですか?」
「その責任は私にも大いにあるからだ。この社会の一員である以上はどうしても」
 僕はその言葉に妙な驚きを感じる。老人は続けた。
「よく“最近の若いやつらはどうのこうの”とかいうことを言うやつがいるがな、私はそういうのが一番気に食わんよ。何をばかなと思う。その若いやつらをそんなようにしたのは誰だってことだ」
「当の若者の親世代がまったく責任を感じていないってことですね」
「ああ。自分に不利益なことが自分のせいである可能性を気にかけない人間だけにはなりたくないものだ」
 ……そんな会話をしてから、僕は老人とかなり親しくなった。僕の日々の仕事のこと(残念ながら主に愚痴になってしまうのだが)を聞いてもらったり、老人の例の経験談や人生で得た色々な教訓を教えてもらったり。目上の人とこんな交流が出来るなんて本当に貴重なことだし、もちろん本が安く買えるのも嬉しい。物によっては少し状態の悪いものもあるけれど、内容がよければ文学として何も問題はない。

  老人とのその会話を思い返し、故郷か、と思った。僕にとっての故郷、それはもちろん生まれて育ったこの街ということになるだろう。十九年間もこの空気を吸い続けてきた。だが故郷として深く考えたことなどない。愛郷心……そんなもの、僕は持っているのだろうか?僕にとっての広島のイメージ――平和。まずこれが一番だろう。平和は絶対的な理想だと思うし、テロだの核実験だのというニュースを聞けば信じられないほど憤りを覚える。八月六日には爆心地の方角に黙祷する(ちなみに終戦記念日である同十五日には何もする気になれない。終戦をこの日まで引きずったせいで広島があんな酷い目に遭わされたと思っているからだ。もちろん、うらんでも仕方のないことなのはわかっているけれど。)し、それは次から次へと重なり流れていく自然でレガートな感情で行うことだ。喜怒哀楽なんてものは超えている。平和記念公園はいいところだし、資料館もいいところだ。ただ入館料が安過ぎるということを除けば(今の料金の十倍くらいにすればいいのに、そしてその収益をなんらかの形でさまざまな事業に使えたらいいのに、と僕はいつも思っている。)。
 僕は広島が好きなのか?その答えは意想外なほどあっさりと出力される。間違いなく好きだと思う。だがそれは故郷としての愛郷心なのか。そんな大仰なものではないような気がする。終わりの見えないリペティションにすべてを捧ぐ交通信号機のように高尚な理由は何一つ持ち合わせていない。ただ少なくとも、もっと都会で暮らしたいとかもっと田舎で暮らしたいとかは断じて思わない。たぶんそれだけだ。
 そんなことをつらつら考えながら、どれにしようかまだ決めかねている僕に気付き、老人は微笑んだ。進化論的な倒立の感じられる親しみのこもった笑みだ。
「最近、本の整理が難しくなってきてな。持ち上げるのがどうにもつらい。これまで歳なんか考えたことはなかったが、やはり仕方のないことなんだろうな。歳には勝てんということだ」
「でも、お元気そうに見えますよ」
「そう見せているだけだ。実のところかなりきている。ただ、頭の方がまともなうちはこの店も閉めたくないからな。今度、誰か一人若いのを雇おうかと思っている」
「いい人が見つかるといいですね」
 老人はショットキー・ダイオードを没却させた孤独者のように頷く。
「まったくだ。……あんたはなかなか優秀そうだが、扱いにくそうでもある」
「なかなか優秀でもありませんし、扱いにくくもないですよ」
 僕は結局買うことに決めた本を机の上に置く。老人は笑い、僕がその本を眺めた。
「ほう、こういうのも読むのか。意外な気がするが」
 僕は苦笑する。僕はこの店でよく買うから、老人は僕の読書の趣味をほとんど知っているのだ。正直なところ、『告白録』を買ったのもこの店だった(三巻セットで三百円だった。言うことなし。)。
「いえ。ちょっと興味がありまして」
 老人はその表紙を撫で、小さく微笑んだ。天文対話の研鑚を思わせるような笑顔だ。
「私も昔はこういうものに憬れたものだ。もちろん、これはあくまで劇中の話であり、現実では決してありえないことだとわかっていてもな」
「私も、ってなんですか。僕は別に憬れていませんよ」
「そうか。それは残念。夢を見られるのは若いうちだけだぞ」
「心得ておきます」
 僕は笑った。出来合いで買ったような破擦音は広がらずに弾け去る。老人が人差し指を立ててみせた。
「ワン・コインだ」
「一円ですか」
 我ながら笑えない、と思いつつ僕は少し笑った。老人は顔をしかめる。
「儲けがないどころか、それでは私は飢え死だ」
「五百円ですか」
「五十円だ」
「……ありがとうございます」
 僕が最初に言った金額の五十倍、その次に言った金額の十分の一で、渚が好きだという作品が手に入った。――『ロミオとジュリエット』。

  ***

  古書店で結構ゆっくりしたが、夕方まではまだまだ時間がある。だから僕は、もう誰も弾くことのないピアノが置いてあるあのバーに来た。そのピアノはどんな人が見てもきっと綺麗だとは言わないだろう。たとえどんなに鮮烈なお世辞のうまいイデオローグだとしても。そんな様子がこの落ちぶれた店の空気とすっかり同化している。以前は専属のピアニストがいたそうだ。今の僕と変わらないくらいの若者だったが、酔っぱらいの喧嘩にのまれ殴られて死んでしまったとあの女は話した。それ以来新しいピアニストは来ることもなく、かわいそうなピアノはほこりをかぶり続けているという訳だ。
「この大層なピアノ、どうするんだ」
 僕はピアノの脚を軽く靴の先で蹴りながら訊いた。女は画趣あるステノグラフィに理解を示すように頷く。
「今はもう、前とは変わってしまったから。前は本当にピアニストが必要だったのよ。それがいい店の第一条件でもあったから。……一番最後はお給料あげたかどうかもわからない。本当に悪いことをしたわ。もう、儲けなんてほとんどなくて……昔は、グラスが足りないんじゃないかと思うほどだった。それが、使わなくて余ってるくらいだもの。だからあなたがいくら割ったって困らない」
「それはどうも」
 女が遠くを見るような目つきをする。
「私には兄弟が四人もいてね……上に二人と下に二人、私がちょうど真ん中……姉は有名な大学の教授と結婚してヨーロッパで暮らしてる。兄は会社を友達と一緒に設立して、取締役。すぐ下の妹は私にはさっぱりわからないような分野で博士号を取ってるし、一番下の妹はアメリカに行って大手コンピュータ会社で働いてる。みんな、私からすれば雲上人よ。それぞれの形でみんな成功してる。私だけよ、こんな崩れかけた店を必死に保って、その日暮らしみたいな生活をして……」
「金や権力があったりするのがすべてじゃない」
 僕は本心でそう言った。金と権力を時に盾のように時に矛のように扱う連中のことは真底蔑んでいる。しかし女は複雑さの極みの漸降でも見るかのように苦しそうに笑った。
「じゃああなたが知らないっていうお兄さんが、すべてを手にしてるような人だったらどうする?あなたには一生かかっても出来ないような生活をしてたら。それでもそんな風に思――」
「それ以上言うな」
 僕はカウンター越しに女の肩を掴んだ。海面更正に引き合わせた国立の聯盟れんめいのような冷たさに一瞬ひるむ。
「俺をばかにしてるのか」
「そうじゃない。私はみじめな自分を見るのがつらいの。だからあなたも、そのお兄さんのことは忘れた方がいい。兄弟なんて所詮他人なんだから。知らない方が幸せよ」
「うるさい」
 僕は本気で腹が立ったが、女は尽きぬ表白に毒されたかのように、まるで著名なモラリストを諭すかのごとく僕に言った。
「あなただってわかってるでしょう?本当にお兄さんに会いたいの?」
「本当だ。おかしいかよ」
「おかしいわよ、私からすれば。どうして?兄弟がいたからってどうなの?これまで二十年近く、会うこともなく生きてきたんでしょう。それで、一体何を求めるの?」
「理由なんてものはない。僕はただ兄に会いたい。それだけのことだ」
 僕が目をじっと見ると、女は目線をそらす。だがこんなところで勝ったからって何になる?
「……兄弟は他人の始まりって言うでしょう?」
「始まりも何も、会ったこともないんだ。だから会えばわかる」
「悲しい思いをしても知らないわよ」
「望むところだ」
 何が望むところなのか、自分でもわからなかった。僕は千円札を投げるようにカウンターの上に置いて、席を立った。腹は立っていたのは事実だが、けれども頭の方は冷静だった。女の言うことに一理あるのもわかっていた。だが素直にそれを認めるのはしゃくだったし、もうその場をあとにした。

  僕は自分でも嫌になるほど、一つ一つの物事に囚われ過ぎる。些細なことを仔細に考え込んでしまう。なんといってもその根幹の問題は兄のことだ。いつも気が付くと兄のこと、そして自分自身のことを考えている。誰に何と言われようがどうにもならない。本質主義と構築主義の激突によって生まれた感情をどこにもやれない。僕の血が叫んでいる。同じ血を分かち合った兄を呼んで――ああ、いつどこで間違えたのか?そればかり考える。僕はいつからこの強烈な自我に縛られている?わからない。世間一般の家族の中で生きていれば、こんな炎の中で火をちぎるような思いは生まれなかったはずだ。自分がいて親がいて兄弟がいて。なぜ僕の場合そこが欠けているんだ?なぜ兄だけがいない?それは決定的な欠陥のように思う。僕という存在にぽっかりと空いた空洞であり、決して補うことの出来ない障碍(しょうがい)。どうしてこんなことになったのだろう。なぜこんな披瀝出来ない感情に支配されている?内側から長期的に破壊されているような気がする。自分自身が生み出したミスティックな幻想のごとき苦痛に耐えられない。でも誰かに救ってもらえるものでないことはわかっている。これは裏から見ても表から見ても僕だけの問題だ。僕がどうにかしなければ……
 あの女は、悲しい思いをしても知らないわよ、などと言った。悪気のないことはわかっている。でもそんなことを言うのは許せなかった。そうかと言って、君の気持ちはよくわかるよ、などと言われるのもごめんだ。ただの人間ごときに他人の感情がわかるはずはない。もしもそうなら世界はこんなに混沌としているはずがないのだから。厚顔無恥で偽善的な栄利は人を不快にするだけだ。

  ***

  夕方と呼ぶには少しまだ早い頃、本通りの真ん中で青山と待ち合わせた。青山が決めた居酒屋の前だ。僕は店を自分で決めるつもりは毛頭なく、どこでもいいから考えてくれ、と頼んでいた。
「おまえに任せるよ。どこでもいいから」
「どこでもいいって言われてもねえ……」
「じゃあ、雑誌をぱっと開いて、そこに載ってる店にすればいいだろ。昔、おまえは本を読む時に、ぱっと開いたページから読んでた」
「うわっ、なつかしい!“朝の五分間読書”だったよな」
 青山はかなり笑い、それから勢いよく「任せとけ!」と言った。そしてその方法で決まったのがここらしい。
「いやー、木崎と飲める日が来るとは思わなかったな」
「同感だ」
 そんなことを言い合い、再会を祝ってグラスを鳴らした。
「久し振りの木崎に乾杯!」
「同じく青山に乾杯」
 この再会に際し、僕達にそれ以上のポスト・スクリプトは必要なかった。それは素敵な話だと思うが、実のところ、僕は青山のことはすっかり忘れていた。一昨日おとついに偶然会うまで、完全に忘れ去っていた。喉を鳴らしてビールを流し込む青山を見ながら、僕はなんだか申し訳のない気分でやり切れなくなった。でも、会えたのだからいいだろう。

  楽しい会話を楽しみ、美味しい料理にも満足という時間がゆっくりと流れていく。僕は言葉にこそしなかったものの、青山に対してありがとうという気分になっていた。そんな中、大声で今住んでいる寮の話をしていた青山が、急に言葉を切り声をひそめて訊いてきた。
「なあ、今通った人、グラナドスに似てない?」
「は?誰だよ、それ」
「エンリケ・グラナドス。結構昔の作曲家」
 僕は苦笑した。そんな名前は聞いたこともないし、作曲家ならなおさらだ。僕は音楽とはほとんど面識がない。
「全然わからないけど。そんなに似てるのか?」
「日本人離れした感じで、しかもひげがそっくり」
「その作曲家、どこの国の人だよ」
「確か……ドイツかスペイン?」
 ドイツかスペイン……僕は頭の中に円柱投影法の地図を広げた。日本を中心にしてその左側……ドイツとスペインは近いが、一応離れている。フランスを挟んでいるからだ。それにしてもなぜ青山がヨーロッパの作曲家などを――両者をつなぐものなんて、エクメネのすべてを探したって絶対に見つからない気がする。あ、エクメネはドイツ語か……
「どうしてそんなのを知ってるんだ?」
「ヨーロッパの音楽に結構浸っててさ。典型的なクラシックだよ」
 真偽のほどはさだかではないが、今の場合嘘をつく必要はない。それに青山は正直者だ。僕とは違って。
「クラシックか。まあ、趣味だって色々変遷を辿ってきたんだろうな。俺が知ってるのは十二歳のおまえだし」
「こだわるなー、木崎は。もう、十二歳だの七年前だのってのはいいじゃんか。せっかくこうやって会えた訳だし、素直に純粋に再会を喜べばいいだろ?」
「でも、もしあの時偶然会わなかったら、俺達はずっと会わないままだっただろ?」
 そう口に出したあとで、なんだか陳腐なボーイ・ミーツ・ガールの映画の台詞みたいだったな、と気付く。しかしそこについては青山は何も言ってこない。ほっとした。
「そりゃあ、まあね。あれは本当に偶然だったし」
 青山のその言葉に、僕はもう一つ別のことに気が付いた。
「それにしても、青山、配達先の宛て名を見て僕の名前だって気付かなかったのか?」
「ああ、全然、まったくもって。詳しく見てなかった。見てたら、おまえの名前ってすぐわかったよ。珍しい名前だし」
 確かに僕は珍しい名前だ。少なくとも青山の名前よりは。
「まあ、どうせ、ぼーっとしてて気付かなかったんだろ」
「違う違う。適度に力を抜いて仕事しないとさ、身が持たないだろ。そういうこと」
「要するにあんまり集中してないってことだ」
「じゃあ何、おまえは仕事中ずっと集中しっぱなし?」
 青山がムキになったので僕は笑いそうになった。ついでなのでさらに追い打ちをかけてやることにする。
「ああ、おまえとは比べものにならないくらい」
「嫌なやつだなー」
 青山はそう言って舌を出した。確か小学生の頃もよくこういうしぐさをしていたな、と思い出した。そして次の瞬間、青山は今度は不意に真顔になる。
「なあ、今の世の中、本当に便利になった。そう思わないか?」
「ん、まあ、そうだな」
「俺達が子供の頃に想像してた以上に、世界は進化してきてる。科学も医療も、宇宙開発も」
 宇宙開発――その言葉に、僕はグラスを持った手を止めた。青山が訊いてくる。
「おまえ、宇宙飛行士になりたいって言ってた夢はどうしたんだよ。宇宙飛行士は努力したらなれる、政治家は親が政治家じゃないと難しいだろうけど、って木崎、言ってたじゃん」
 宇宙飛行士……その言葉は僕を、クオリアもちらつく遥か遠い過去に引き戻す。僕は宇宙飛行士になりたかった。生まれてから初めての明るい展望が――宇宙だったのだ。僕は宇宙にとてつもなく大きな希望を抱いていた。僕にとっての宇宙観とは、すなわち新しい世界だった。その新しい世界へ触れる、つまり関わる方法はいくらでもある。しかしその世界へ実際に飛び出していけるのは宇宙飛行士だけだ。だから僕は目指していた。そう、目指していた――もう過去形なのだ。どうして進む道をそれたのだろう?未来への希望に会者定離は当てはまらないというのに。……どうしてなのか、それを僕は考えなかった。あの頃はいつか忘れるなんてことは知らなかった。僕はいつからあの夢を忘れていたのだろう。いや、諦めていたのだろう……
「俺、結構おまえのことを思い出してさあ、あれ、木崎今頃どうしてるかな、とか思ってたんだぞ。宇宙飛行士になったニュースはいつ見れるんだろうって」
 未熟なプラシーボが転がっているようなことを急に言われた僕は、笑うしかなかった。
「なんだよ、それ。そんなことを思ってたのかよ」
 まったく忘れていた僕と比べ、なんという違いだ。やっぱりなんだか申し訳ない。
「まあ、人生、思うようにいかないことがものすごい多いし、我慢したり諦めたりしないといけないようなこともものすごいあるよ。ガキの頃は、世の中がつらいし大変なことなんかわかってる、って思ってた。でも、本当はなんにもわかってなかった。やっぱり、甘かったんだろうな」
「青山……おまえ、本当に大人だな」
「さあ。自分ではどうなのかわからないけど。ただ、俺はずっと大人に憬れてたよ。早く大人になりたいって思ってた」
「俺は、大人になんかなりたくない」
 僕は正直に言った。僕は大人になんかなりたくない。すると、青山が笑い出した。
「いや、今俺に大人だなって言ったばっかじゃん。俺みたいになりたくないってことか」
「違う。青山はいい形で成長してると思うよ。あの頃の部分もまるっきり失ったって訳じゃなさそうだし。でも俺は……変わっていいのか、わからないんだ。変わりたいのかも、わからない」
「そう……まあ、そこは結構難しいところだろうけど。だけどまあ今日は、難しい話は抜きにして楽しもうぜ」
「そうだな」
 青山の笑顔を見ていると、何もかもを忘れ去れるような気がした。もちろん、気がしただけだけれど。
「そんなことよりさ、木崎」
「ん?」
「どうしたんだよ、その喋り方?なんか知らないけど、信じられないというか。標準語ペラペラで」
 僕は苦笑した。差し向かいの信念に沿った仮構……いつか指摘されると思っていたのだ。
「いいだろ、別に」
「映画の中の登場人物の話し方じゃんか」
「ああ、そういうつもりで喋ってる」
「なんだよそれ、意味不明」
 不満そうにそう言いながらも、青山はそのことについてはもう追及してこなかった。

  僕は元々、青山と同じような喋り方をしていた。つまり、若者らしい広島弁を使っていた(そう、青山の発言はすべて広島弁によるものだ。渚も広島弁を、鎗山も広島弁を喋っている。僕の周りの人物は皆それぞれに広島弁を使っている。ただ一度僕の脳を通して回想するとそれらはすべて標準語に変換される、そういう訳だ。)。それがこんなのになった嚆矢濫觴こうしらんしょうは――あれはいつだっただろう、情けないがもうまったく思い出せない。けれどとにかくある時、僕はそれが急に不満になった。どうにも我慢出来なくなったのだ。どう表現したらいいのかというと難しいが、なぜだか許せない気がした。それで突然、外国映画の吹き替えみたいな言葉遣いに変えたのだ。僕にとってそれはコペルニクス的回転とも言える大胆な転換だった。正直に言うと初めの頃はかなり大変だった。慣れた方言というのはついつい言葉の端々に出てしまうもので、“届く”を“たう”と言ってしまったりすることなんかしょっちゅうだ。でも僕は確固たる信念で断固として自分の言葉遣いを矯正した。つまり自分自身による強制だ。今となっては僕はもう意識することなく、辞書に載る言葉で話が出来る。もちろん僕は満足しているし、以後もこのままを続けるつもりだ。

  僕は青山が勢いよく箸を動かすさまを眺めていて、ふとあることに気が付いた。
「あれ、おまえって左利きだったっけ」
「あっ、気付いた?なんかさ、右脳がどうのこうのって言うだろ。本当かどうか調べてやろうと思って、左利きに挑戦してるんだ」
「なんだよ、それ」
「いや、俺は音楽が好きだから」
 先程も作曲家がどうのと言っていたし、本当のことらしい。
「音楽的な認知をつかさどってるのは右脳だってやつか」
「そうそう。なんか、右手を左手にとか左手を右手にとか、無理矢理変えてやろうとしても結構難しいらしいんだよ。でも俺は結構すんなり出来てさ。だから、今は普通に左手を使ってる訳だよ。なんか結構自然でさ、元々は左利きだったんじゃないかって……あ、そうそう、右利きでも、指を組んでさ、左の親指が上になる人は、隠れ左利きらしいよ」
 青山はそう言って両手の指を組んでみせる。僕もやってみた。……左が上になる。
「左利きはまれな才能を持った人が多いって言うだろ。どう思う?俺は結構当たってるような気がするけど」
「俺は信じてないな、正直。有名どころではまあレオナルド・ダ・ヴィンチ、それからジャンヌ・ダルクも左利きだったらしいけど」
 僕は記憶をたぐりそう言う。しかし言いながら、彼らが左利きであるから素晴らしいのだとは決して言えない、とやはり思った。相手が青山なので、僕はそれを素直に口にする。
「右利きにだってまれな才能を持った人は大勢いるだろ。いや、逆に右利きをひいきする訳でもないけどさ」
「まあな、そう言い出したらキリがないもんな。でもそれでも俺は信じてるよ。絶対左利きは何かある。左のおかげで音楽的感性が上がってさ、もっと感受性豊かになるんだ」
「じゃあそういうことにしとけよ」
 青山があまりに本気になっているのが僕には少しおかしかったけれど、そんなの青山の自由だ。

  右利きだからとか左利きだからとか、血液型で性格が違うとか、それから手相で人生がわかるとか、僕はそういった一連のものを全体的に信じていない。そんなものですべてを決められたらたまらない。僕は占いとかそういったものは何もかも一括してあまり興味がない。それに比べ渚はそういったものにとてつもない関心を持っている。普段からよくやっているお祈りの他にも、やけに縁起を気にしたり、訳のわからないおまじないを実行したりする。仮面を被った外接多角形に屈従するソーシャリストのようだとしか思えないが、個人的趣味にまで口出しするつもりはない。
 そういえば一度、あの女と占いを話題にしたことがある。その時女は占いについて、ある程度は信じる、と言った。
「つまりご都合主義の方針か?信じたり信じなかったり」
「そういう訳じゃないけど。すべてそういうものにすがりはしないけど、まったく受け入れない訳じゃないっていうところ」
「まあ、大抵の人間がそうだろう」
 いや、心の奥底ではすべての人がそうかもしれない。
「あなたはどうなの?占い、信じる?」
「いや……僕は信じない」
「どうして?」
 女の声音と口調からは、本当に興味があるのか、それとも社交辞令的な問いなのかがわかりかねる。僕は少し肩をすくめ、心にもないように答えた。
「どうしても何も。僕はそんな誰かが定めた法則は信じない」
「そう。私はそうは思わないわ。誰かが決めたとかそんなことは関係ないの。占いはあくまで占いで、それだけよ」
「僕はそんな風に割り切ることは出来ない」
 そんなことが正しい世界などあっていいのか?しかし他人は他人、僕は僕なのだ。

  ***

  青山がもう何杯目かもわからない空のグラスを置き(青山は明らかに僕よりもよく飲みよく食べている。)、この空気に逆境のエミッターを取り付けるように息をついた。
「木崎、おまえも色々あるんだろうけど、あんまりそんな顔をするなよな」
「そんな顔?」
「だからさあ、なんか、こう、諦めた顔?見限った顔っていうか……自覚ない?」
 諦めた顔、見限った顔……その目的語は『世界』か?それとも『生きること』?はたまた『自分自身』?
「もう少し、希望を探すようにしてもいいと思うんだけどな。反対に楽観的過ぎて何も考えないっていうのも問題だろうけど。俺なんかは結構そういうタイプだし。でも木崎は昔から、小さい問題をものすごく重大に捉えるって感じだっただろ。それが酷くなってきてるんじゃないか?」
 そうかもしれないと僕が頷くと、青山は顔をしかめた。こんなにうまく喜怒哀楽をわかりやすく表現する人間を僕はなかなか知らない。
「人生なんか、そうそう思うようになるもんじゃない。そんなことはみんなわかってるんだよ。その上でどう考えるかってことだろ、問題は。必要以上に暗く考えて、つらくなるのは自分じゃんか。気の持ちようだってよく言うけど、結構当たってると思うよ」
 内容が内容なのに説教じみて聞こえないのが不思議だった。たぶん青山の人柄からきているのだろうが、おかげで僕は気を悪くしたりはしなかった。ただ、あまりにも正論過ぎてどうしようもない。
「わかってる。でも、だからってどうにも出来ない。どうしても暗くならざるをえないっていうか。気が付いたら自分のことを考えて、兄のことを思って、彼女のこと思い出して……毎日、というか毎秒がその繰り返しなんだよ。ずっと同じところをぐるぐるぐるぐるしてるんだ。忘れたら絶対楽になれると思うし、そうなれるならなりたいよ。俺だってこんなのは嫌なんだ」
 自分自身に対する不満はまるで的を射ない言い訳のようだ。言いながら、そして自分のその声を聞きながら、どうしようもなく情けなく思う。でもたとえ強力なエル・エス・ディーで飛び立てたとしても、現実が完全に遠ざかる訳ではない。
「あの……」
 青山が小さく右手を上げた。頬のところで指をまっすぐに揃えている。
「あの、なんかものすごい自然な感じで聞き流しそうになったけど、……彼女のことを思い出してって何の話?」
「あ」
 ついつい口に出ていたようだ。まったく気が付かなかった。聞き流してくれればよかったものを、青山はもう先程までの親身な態度ではなくただの好奇心からこちらを見ている。これまで僕は他人に彼女のことを話したことはない。もちろんこれからも話すつもりはない。いくら唯一の友人である青山でも、この話はしない。
「言わない」
「言えない、じゃなくて、言わない?」
「ああ。言わない」
「わかった。ものすごい気になるけど」
 青山はそう言い、ポピュリスムの制約の中で面目躍如するみたいに少し笑った。
「じゃあ別の話。この前おまえの家に配達した時にいた女の子、一緒に暮らしてる訳?」
「うん、まあ」
 彼女の話題をあっさりと引いてくれたので僕はほっとした。青山はこういうところがいい。興味津々だとしても、ちゃんとこちらの気持ちを汲んでくれる。この性格は小学生の頃からそうだったと思う。しかし切り替えた先が渚の話題とは……結局のところやっかいだ。
「ちらっとしか見えなかったけど、ものすごいかわいかったじゃん。本当は付き合ってるんだろ?」
「いや、それは本当に違う。おまえは知らないかもしれないけど、俺はかわいい子より綺麗な人の方が惹かれるんだ」
「ふうん……何歳?」
「十六」
 そう言ってから、そういえば渚の誕生日を知らないのだからもう十七かもしれない、と思った。でも確率からすると十六歳の方が正しいだろう。
「へえー、三歳下か。ものすごいいいな」
 そう言ってから、急に青山はにやりとした。
「実は、俺、今は相手がいるんだけど」
「ふーん」
 そう応じながら、僕は追加のオーダーを何にしようかとメニューを手に取った。青山が不満そうな声を上げる。
「ふーんとはなんだよ」
「ああ、聞いて欲しいのか?」
「興味ない訳?」
「ある訳ないだろ」
 僕はそっけなく切り捨てたのに、青山はまったく動じず、結局自分から話し始めた。
「おまえ、覚えてる?小学校の時、ものすごい人気のあった子がいたの」
「さあ……覚えてない」
倉田くらたあゆ子。六年の時も、俺達と同じクラスだったけど」
「名前を言われても……何か印象に残るようなエピソードがあれば、覚えてるかもしれない」
 僕がそう言うと、青山は直接的なインプリケイションとしての補償に引っ張られたようにうなった。
「エピソードなら、あの子はものすごいあるよ。たとえばさ、バレンタイン・デー、男子の方からあの子にプレゼントがいっぱいあった。今は結構“逆チョコ”とか言うけど、当時は……まあ、本当に人気だったから。それから修学旅行の時、みんなが遊園地をあの子と一緒に回りたいってことで、班を決めるのがものすごい大変だったじゃんか」
「修学旅行……あんまり覚えてない」
 あれは最高学年の初夏だったか。もう遠い遠い昔のことのようで、その記憶にまで引導するには僕の意思は弱過ぎる。
「んんー。……それとか、あの子、習字がものすごいうまくて、なんか全国の有名なコンクールで選ばれて銀賞かなんかになったりした。我が校初の快挙とか言って、当時ものすごい盛り上がったんだけどなあ」
 習字のコンクール?もう、どこか別な星の話題でも聞いているような気分だ。
「いや、全然覚えてない」
「あーもう、とにかくかわいい子よ。髪は結構ショートで、目がくりっとして。いつも赤いリボンをつけて――」
「赤いリボン!」
 僕が思わず大声を出すと、青山はびくっとした。
「ちょっ、なんだよ」
「わかった。あの子だ」
 一体誰のことを言っているのかと懸命に考えていたのだが、やっとわかった。いつも赤いリボンをつけていた……
「あの子か。で?その子がどうしたんだ」
「いや、だから俺が今付き合ってる相手」
「は?小学校の同級生だろ」
「この前、同窓会があったんだよ。おまえは来なかっただろ。その時に話して、なんか仲よくなって、付き合うことになりました、という訳で」
 同窓会か、確かに案内が来ていたような気もする。だが僕は気にも留めなかったし、行くつもりなんてさらさらない。今後もずっと。
「へえ、まあ、それは本当にめでたいことで」
「何、その随分冷たい言い草は」
「冷たいも何も、おまえが誰とどうしようが俺には関係ないだろ」
 僕は正直に言った。とたんに青山はアインフュールングを妨げられたような顔をする。
「はっ、そういうことを言うんだからな、木崎は!どうしてこう、もっと親しみを持って接してくれない訳?」
「親しみ?なんだよ、それ」
「俺達の間にもっと必要なもの」
 青山は即答する。僕は苦笑いするしかない。
「どうして断言出来るんだよ」
「俺、木崎ともっと友情を深めたいなって思ってる。本気で」
 青山は受け売りの優しさにすがるような目で僕を見た。
「もっと友情を深めたいって、そんな台詞よく言えるな。脱帽級だよ」
「脱帽か、そりゃどうも。でもそう思ってるんだよ。本気で」
「こちらこそ、そう思ってもらえて光栄だ」
 僕はそう思った。本気で

  赤いリボンをつけていたあの子のことを僕は考えた。倉田あゆ子というのか、と思う。名前なんてまったく覚えていなかったし、言われても確かにそうだったとも思い出さない。本当にさっぱり忘れていたが――あの子は僕が初めてキスをした子だった。あの子の髪が揺れて、そして赤いリボンも揺れて。アルカロイド中毒になりそうなほど甘い唇の感触まで不意に思い出される。あれは一度きりの短い瞬間で、寝覚めの頃の夢のような不確定な時間だったけれど、僕はそれをアルファからオメガまで覚えている、ということに気付く。どうしてそんなことさえもすっかり忘れ去っていたんだろう?それにあの頃の僕は、十九歳の今こう考えている僕を想像出来ただろうか?いや、絶対に出来ない。架橋のトワイライト・ゾーンが大河を下るように眼下に迫ったとしても、じれったい時間は黙ったままに通り過ぎていかないのだから。

  ***

  青山の飲み食いの勢いはいつになったら衰えるんだろう、と思っていたが、さすがにそろそろこの場もおひらきだろうと思われる。見ているだけで腹が痛くなりそうなほどに次々にグラスと皿を空にしていった青山。筋肉質ではあるのだろうが、外観的にはとてもすらっとしているのだから不思議だ。
「なあ、俺の夢のことは覚えてる?」
「え?」
 突然の問いかけに、僕は陳腐な応じ方しか出来ない。青山は僕の先程からのゆううつを結滞させるように皓々と笑った。
「木崎は、宇宙飛行士。じゃ、俺は?」
「……さあ。全然覚えてない」
「トラックの運転手」
「え、じゃあ、今」
 驚いた僕に、青山は敬虔な詩意などそっちのけでウインクしてみせる。
「そう。見事に夢を叶えましたって訳。俺の親父もトラック運転手だったから、結構なんとなく憬れてたんだけど……なんと、親父よりいい会社に入れました」
「そうだったのか」
 まったく知らなかった。いや、忘れてしまっていただけなのだろう。僕は宇宙飛行士という突飛なヴィジョンを青山に話したことを覚えている。ということは、きっとその時に青山も僕に自分の希望的展望を語ったに違いない。
「でも、夢見てたことって、いざ現実になったらなんか現実味ないんだよなー。叶ってしまったらもうそこで夢は終わったっていうか、そういう感じ。高校出て、社会人になったすぐは、ものすごいいろんな気持ちがあったんだよ。でも、気付いたらもうそんなことすっかり忘れててさ。毎日毎日不穏なくやり過ごすので結構せいいっぱいって感じ。たぶん、昔の俺に今の姿見せたらものすごい情けなく思うだろうって思う」
「でも、おまえは頑張ってるじゃないか」
「そんなことないんだよな、残念ながら。少なくとも、俺が子供の頃想像してた俺とは全然違う。もうダメだよな、正直。きっとこのまんまの調子で老いていくんだ」
「まだ十九だろ。老いていくとか……話が早過ぎるだろ」
 僕は正論で答えたつもりだったが、青山はさらに上を行く正論で返してくる。
「そんなこと言ったって、俺達だっていつ死ぬかわかる訳じゃないじゃん。俺、この前いとこが死んで、葬式に行ったんだぜ。いとこよ、いとこ。二十三で、今の俺と四つしか違わない訳。ショックとかそういうレヴェルじゃなかった。あれから……若いからってのんきに生きてるなんていけないなって思うようになったんだよ。本気でさ」
 急にそんなことを言われ、僕は首を下に動かすことしか出来ない。
「俺はさ、出来ることなら長生きしたいよ。出来れば百歳以上。でも、思った通りになるもんじゃないだろ、どうしたって。おおげさに言ったらさ、成人だって迎えられない可能性もあるし。もうすぐだけど」
 マリー・アントワネットには十五人兄弟がいたが、そのうちで成人するまでに七人が死んだのだそうだ。もちろん、僕は女帝の子ではないので比べるのは悪いジョークだけれど。
「ま、思ってるだけで特に何か変えた訳じゃないんだけどな。気持ちだけだけど、少し用心してるって感じ。一応、慌てふためきたくはないと思って。でも木崎、おまえがもし二十三で、つまりあと四年で死んだらどうする?」
「どうするって……死んだら終わりだろ」
「いや、困るだろ?やり残したこと、やりたかったことが、山ほどあるんじゃないか?」
 僕は青山を真似し、少しおおげさなしぐさでビールを飲み干した。
「……山ほどはない。だけど兄を探すこと……」
「だろ!それは、生きてるうちじゃないと出来ない。死んだら、天国か地獄かとかいうけど、あんまりあてにならないだろ。それに、もしおまえが長生きしたとしても、お兄さんの方が死ぬ可能性だってあるじゃんか」
「縁起でもないことを言うな、おまえは。まあ、確かにそうだけど」
 僕は少し笑ったが、青山の顔はまじめそのものだ。慟哭で創った彫刻みたいに独立感をまとっている。
「俺はそんなものすごい使命はないけど、おまえの場合は大変だろ。相手があることだし。やっぱりそう……死ぬ時ってやっぱり後悔したくないじゃんか?」
「そりゃあその通りだ。でも、……いや、わかった。参考になったよ。突然死んでもうろたえないように心の準備をしておく」
「まあ、突然死なずに済めば一番いいってことだけどさ」
 青山はそう言って笑った。今度は僕は笑えなかった。店の壁にかけてあるエル・イー・ディーで照らされた時計を見た。時の流れというのは本当に一定なのかと疑ってしまいそうだ。なつかしい宇宙を思い出して架空の宇宙酔いをしているうちに、もうすぐデジタル時計にゼロが並ぶ。

未成年⑤ 四日目(Wednesday)に続く


#創作大賞2024
#ミステリー小説部門


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?