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1991年の可能世界

 一九九一年、もしも彼がまばたきをしていたらこの世界は大きく違っていた、と僕は思う。
 
 今この部屋には箱が十六個、椅子が五脚ある。床一面は適度な具合につるつるとしていて、三枚ある窓はどれも漸進主義的な等差数列のようにくすんでいる。僕はそれらが多少でも改善されることを真底望んでいるが、それは無理というものだ。一人ごとの悲しみをたたえたエンハーモニックが時折通り抜けるこの部屋は、今少しずつ死にかけている。
 ベランダに出ると冷たい外気が肌に心地よい。人生そのものの去就に惑っている僕の肺の中を洗う風。目に見えぬ辛辣なアフォリズムを送り続けているこの流れゆく時刻。避難出来ない自己弾劾みたいに広がっているのは、僕が眺めたいと思ったものは決して眺められないこの街の夜景だ。無作為に列立したビルを見たってこの乾き切った心臓は癒やされない。だから僕は視線を上に向ける。まるで無関心そうに月は宇宙に浮かんでいる。僕はその様子を見ているといつだって少しだけ物語めいた感情を得る。それはたとえれば典型的な夢のようなもので、簡単に招待状をもらえる訳ではない。しかもその招待状は過度に複雑に暗号化された文字で書かれていて、デコードすること自体がかなり難しいことである。それでも僕は確かにその招待状を受け取っているし、その数少ない幸運の恩恵にあずかっていると思う。だが僕はどんな時であろうと考えている。この世界はただ可能世界の一つに過ぎないと。月は僕の迷いの視線に黙る。
 朝が来れば僕は街に出る。夜にベランダから眺めたのとはまったく違った顔をした街。森から二十五キロの街ではない。黒く白い境界因数みたいに気取り、滝のように流れ落ちていくヴォーグを掴もうと必死だ。残念ながら僕は街になじめない。それは一九九一年のせいだと言っても過言ではないだろう。僕の運命が最終的に決定してしまったあの時――やはり、彼がまばたきをしていたならと思ってしまう。そうすれば僕はこんなに半偽善的な側面や冗長的な側面を持たない人間であったかもしれないのだ。そう思ってももう当然ながら変えることなど出来ないので、こうなってはもう笑うか泣くかしか道はない。進んでも終わりのない道だが。
 僕は悲劇的結末を恐れつつも、望む通りの注意深さで耳を傾けて欲しいという祈りをひそかに抱いている。たとえば、街を歩きながらミュージックプレイヤーで音楽を聴いていると、偶然のタイミングで僕の流行に当てはまる風景と出会うことがある。そんな時僕はこう思う――ああ、生きていてよかった。誇張表現でもなんでもない。本当にそう思うのだ。こんなにも美妙な一致、まるで神様が存在するかのような出来事があってもいいのかと思うのだ。順番的に言えば、または確率論的に言えば、それはごくありふれた転換点かもしれない。だけれど僕は一応は文学的な人間だ。だからこういったことに運命を感じずにはいられない。神様が実在するかどうかなんて知ったことじゃないけれど、それさえも綺麗なことに思えてしまう。そうするともう何もかもがつながってくる。僕は天国と地獄の融合みたいな地面を歩きながら、イアフォンから流れてくる神秘に全身を委ねる。身体中があまねく性感帯となり、険難な課題と戦うようだ。僕は瞬間的に絶叫したい衝動にかられる。それは一種の感電みたいに甘苦い。1+1が何なのか、東京ドームが東京ドーム何個分なのかがわからなくなるくらいに混乱させられてしまう。僕は天才(あくまでもメタフォリカルな意味で)かもしれないと思うほど、僕は世界に感動するのだ。それは不可視の命題で、夢の中に張り巡らされた有刺鉄線が綺麗に折りたたまれていくのに似ている。
僕の知っていることなんて、他愛ない和解のひとかけらにも満たない。僕はどこまでも未熟な衒学者で、浅学非才な散歩者だ。憬れには近付けず、手を伸ばすことさえままならない。何も求めてはいけないんだろうな、そう思いながらも、僕は例によって群衆の中の一人に過ぎず、いつも悲境の鏡を覗き込んでいる。どうしたらいいのかわからない。
 言ってしまうと、正直なところ、僕のこうした議論にはとてもついてゆけない時がある。そこが僕の僕たる所以ゆえんなのだけれど、僕は自分が馬鹿なことをわかってはいる。問題はその省略能力がどれほどのものであるのかで、僕が馬鹿だという前提の上で一体どんなバックフォーカスを演じるかということになる。徹底的に異なる感情達をさらい、自分の言葉のプールに飛び込むということ。申し訳もなく繰り返される快感的な苦悩。散りばめられた退屈をしのぐ為に、散文でも韻文でもいいから繕う必要があるのだ。僕は場面の状況を語れない。たとえば先程伝えたように、この部屋には箱が十六個、椅子が五脚ある。だからと言って僕にとってそれはそれ以上でもそれ以下でもないのだ。僕にとって問題なのはその箱や椅子のありさまではない。そんなものは想像による模作でどうにでもなる。もちろん、箱や椅子に心情があれば話は別だ。そうなると話は大きく変わってくる。
 一体何を目的とした飛行なのかがだんだんとわからなくなってきた。これも僕らしいと言えば僕らしい。僕はいつだって重要な境界線を逸脱するのが得意だし、他律の正当性を証し立てるのが苦手だ。本を閉じるにあたっての心構えというものがうまく出来ない。心理的空間像のようにとりとめのない言葉つなぎは本当に大得意なんだけれど……
 どこに結果があるんだろうかと思う。せせこましい友情に振り回されることもないし、止まったままの好奇心で疑心暗鬼を膨らますことだってない。それなのに僕は迷っている。事実が僕を相互に類似する発信行為のように追い込んでいくのがわかる。僕は想像の中の一本の線の上を、ア・プリオリな干渉によって出来事の略奪が行われていくさまを眺めながら歩いている。それはそれは心もとない行為で、忘れられない漏洩の遊戯だ。
 僕の思考達が惑い続けている中、未知なる問いかけはさらに増え、僕は意味不明な謎の渦の中に取り残される。宣言としての知識が欠けていても色々なことを考えることが出来るのだし、特に問題はないのだけれど、それでも僕はもしかしたら運命かもしれないというような出来事を求めている。賭けていると言ってもいい。そして、叶わないから余計に強く欲してしまう。コンパスの針は何を願うのか、わからないままに詳細な自己を消滅させ、行き止まりさえも見つからずに終わるのだ。
 僕は時々自分に対して本格的に頭に来るし、だからと言ってそれは何の解決にもならないけれど、すべては本質と現在を持っている。続けられるイントロダクションの波において泣いたり笑ったりするのは僕だけじゃない。悲しがるのは誰だって簡単だし、喜ぶことにはこつがいる。この真理は未来永劫不変のはずだし、一九九一年に彼がまばたきをしていたとしても関わりのないことだ。だから僕は今だって星が凍るような死に甲斐にさいなまれながら、果てなき生き甲斐をただ一つの心情が満ちるまで探している。答えなんかないかもしれない。でもだからこそ、僕はこの可能世界で生きていく。誰のせいにも、そう、彼のせいにもしない。僕は僕として現在を生きているのであり、それがすべてだ。


#創作大賞2024
#オールカテゴリ部門
 



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