未成年⑥

五日目(Thursday)


 
 別れはいつだって優しくない。それは必ず悲傷と苦悩と結託してこちらに向かってくる。僕の冷灰に水を注ぐような思いの愛も、別れの前では無残に割れた鋭錐石も同然だった。姿を見せないルーラーが僕を動かしているという現実に耐えられない栄辱を与えられ、僕は何も考えられなくなる。ある意味ではそれは臨終とでも表現すべき状態だ。思考の臨終。そこまで行ってしまうと、もうどうすることも出来ないのだ。
 なぜこんなに僕が死にかけたような思考に陥っているかというと、……昨夜の夢に彼女が出てきたのだ。もちろん寝覚めはすこぶる悪く、今は頭ががんがん痛い。欲得のタナトロジーに取りつかれた占い師みたいに、声にならない叫びが身体中からあふれそうだ。僕と彼女の結末はどうしようもない悲劇的悲劇だった。もう起きてしまった事実としてそれが変えられないのはわかっている。だから僕はいつでも彼女のことを考えると、街に覚醒出来ない牢上がりのような気分になり、身体がばらばらになってしまうほどの苦痛を味わう。だが一番の問題はそんなことじゃない。苦痛だって後悔だってなんとか折り合いをつければやっていける。ただその核心は――僕がまだ彼女を愛しているということだ。僕は彼女を忘れられない。忘れるつもりがあるのかどうかさえわからない。だからいつだって彼女との記憶に縛られたままなのだ。そしてこんな風にアルファ崩壊に流される夢を見たりして、そのたびにさらに強く濃い追憶に悩まされる。こんな烏焉うえんの螺旋のような状況から解き放たれたいと思いつつも、それを恐ろしくさえ感じる。もし彼女のことをすっかり忘れ去ってしまったら、僕は一体どうなってしまうんだろう?そんなことは考えることすら出来ない。
 彼女はいつだって星座の破片が消えていくように小さく微笑んだ。何物にも窮追されないうわごとを繰り返すかのように、それはきっと誰よりも儚い悲しみを隠す為のものだったに違いない。何もかもに一つ一つピリオドを打とうとするからそんなにつらいのだということを、たぶん彼女は気付いていなかった。彼女は恐ろしいほど繊細で敏感だったけれど、自分のつらさについては悲しくなるほど疎かった。“待って”と言うことが許されていると知らなかったのだ。彼女はいつも誰かの思惑のなすがままだった――それは時には僕であっただろう。それにしても……僕達は気付かなかっただけで、二人して同じ罪に寄り添っていたのかもしれない。それとも彼女はすべてを理解していて、僕がまったく知らなかっただけなのか。とにかく今となっては真相などわかるはずはない。
 
 ***
 
 ようやく彼女についてのプロブレマティックな夢のことを頭から払えるようになってきた頃、渚が起き出してきた。そしていつもよりもやや小さな声で「おはよう」と言う。
「ああ、おはよう」
 渚は少しもじもじしながらこちらを見ている。
「お兄ちゃん、あのね」
「どうしたんだ、いきなり」
「……喫茶店、本当は一緒に行きたいんだよ」
 やけに子供っぽい渚の態度に、思わず僕は笑った。
「連れてってやるよ」
「よかった」
 渚は幾重にも重ねられた試行錯誤に成功したかのように笑う。その笑顔を見ていると、論証など必要なく温厚な気分になれるような気がした。こんな風に僥倖ぎょうこうの優しさがおとなう笑顔を浮かべられる人を僕は他に知らない。明後日はずっと空いているので、早速だが明後日行こうと約束した。
「やったあ、楽しみだなあ」
「そうだな」
 渚が深夜に幸先のいいおみくじを引いたように喜んでいるのを見ていると、素直に僕も楽しみになってくる。
「あ、そういえば『リア王』、もうちょっとで読み終わりそうだよ」
 渚が本を指差しながら言った。
「ええっ。もう終わるのか。随分速いんだな」
「だって楽しいんだもん。退屈だったらなかなか読めないよ」
「退屈とかそんな問題かな。僕はなんでも読むのにかなり時間がかかる」
「そうなの?読書家な人って、読むのも速いイメージがあるけど」
 確かにそんな気はしなくもないが、もしかしたら僕が例外的なのかもしれない、と僕は思う。
「それにしても本当にありがとう、いい本を紹介してくれて」
「いや、そんなに礼を言われるようなことじゃない」
「ううん。お兄ちゃんにはお礼を言わなきゃいけないことばっかりだよ。いつも感謝してるもん」
 面と向かってそんなことを言われるとなんだか気恥ずかしい。
「普段あんまり言葉で言わなくてごめんね。伝わってると思って」
「伝わってるよ。……そんなことより、『リア王』、どこがそんなに気に入ったのか教えてくれ」
「あっ、話をそらした。照れてるの?」
「照れてなんかない」
 渚には隠しても無駄なようだ。充足的ならぬ超充足的な遺伝暗号はかくも美しく心情を煽るのか……
 
 ***
 
 職場に向かっていつも通りの道を歩いていると、突然何の前触れもなく僕のよく知った香りが鼻をかすめた。それはコーヒーの香りでもなければ香水の香りでもない。そんな意味深い内面を持ったインプレッションじゃない。昔の自分の部屋、つまり実家のあの部屋の香りだった。家ではなく、さらに限定された部屋の香りだというのはおかしな感じだが、でも実際に僕の部屋の香りがしたのだ。僕に与えられたあの部屋は比較的暮らしやすい空間だったが、僕は必要以上に窮屈さを感じていた。目に見えぬ南京錠ががっちりとおろされ、内側に無理矢理閉じ込められているような気がしていた。もちろんそれは被害妄想が少し進化したものでしかなく、事実とは大いに違っていたのだが、それでも僕はずっとそういう思いに苦しめられていた。情けないと思うが実際に僕はそんな弱い人間でしかない。それで……なぜ突然に今、職場へ向かう道の途中でその香りがしたのだろう。なんとなくあやしい感じがする。今のはとても痛烈な体験だったんじゃないか、という気もしてくる。
 訳がわからず不思議でたまらず、気になって仕方がない。しかしこんな別な世界に起因があるような事柄にずっと頭を奪われたままではいられない。僕は今職場に向かっている。それが一番の重要事項なのだ。僕の信じる本質的問題としては、この不可思議な出来事の方がより強く強く重要だが……この社会に生きるにはすべてが正反対に矛盾する。非個性的なガラクタをで拝し、至上の聖像につばを吐かなければいけないことが多々ある。僕はそれを知っているし、それを受け入れざるをえないことも知っている。暗黙の了解という名のヴェールを手離すことは己の朽廃を意味する。僕はまだそこまで気高い人間ではない。
 
 ***
 
 けたたましい音を上げて電話が鳴った。僕の曖昧な静寂は一瞬にして切り去られる。その電話を受け、僕はしばらくの間とてもていねいに応対していた。僕はそこらの人よりは礼儀正しい方だし、それで怒られるはずはなかったのだが、なぜか電話の向こうの相手は激怒し始めた。責任者を出せ!などとわめいている。それからも少しの間冷静と興奮のやりとりを続けたが、相手の勢いは止まらない。仕方なく僕は上総に声をかけた。
「上総さん、電話を代わっていただけませんか」
 上総はサンドウィッチを食べていたらしい。喉を詰まらせそうなしぐさをし、胸をどんどんとたたく。かなり笑える格好だったが、笑っている場合ではない。
「どっ、どうしたんですか?」
「責任者を出してくれって。今はいないって言ったら、じゃあ今いる中で一番上の者を出せって」
 希薄な空気を冥々とした廃址の奥まで吸い込むようにして上総が室内を見回す。
「……今いる中って、つまり僕と木崎君ですよね」
「はい。だから上総さんに」
「木崎君より僕の方が上なんですか?同期なのに」
「同期ではありますけど。間違いなく上です。年齢も、経験も、責任感も」
 僕は正直に思っているままを言う。すると上総は端厳なコンメンタールを必要としない加速度病に引きつったかのように笑った。
「もし僕が社長になったら、木崎君を秘書に抜擢してやりますからね」
 言いたいことが多過ぎる。そもそも上総は社長にまでなろうとしているのか。それに“抜擢してやる”という語調自体があやしい。
 
 ***
 
 再び怒り出した電話の向こうの相手が「やっぱりさっきの者に代われ!」と言うという最悪の不幸が降りかかり、僕はミー散乱の飛び散る崖から突き落とされたような気分を堪能した。そして当然の流れとも言うべきかグラスを割りたくなったので、僕はまたあの店に来た。名前も知らない女がいつものようにひっそりと迎えてくれ、僕はその時点で既に幾分か満足する。
「最近よく来るわね」
 僕は黙ったままグラスを受け取った。名前もわからないカクテルを飲み干し、ためらう間もおかずに床に向かって投げつける。たちまち見るも無残な姿に変わってしまったグラス。それは今は“元”グラスで、ガラスの破片以外の何物でもない。僕はそれを眺めながら考える。無意味綴りの言葉を集め、見果てぬ夢境の中で飛び回ることにもそろそろ疲れた。疑わしきは罰せよ、という基本理念の下、僕は一体どこに向かおうとしているのか。決して再生されない録音機を相手に喋るような徒労を重ね、誰かを傷付けた記憶さえ忘れて。ある程度の綺麗ごとは必要だけれど、心の中まで隠したファンシー・ボールに何を期待出来るだろう。僕は誰かにすがるなどということは考えたこともない。一人で生きようとするのはただの強がりか?確かに僕は弱い人間だ、残念ながらとてつもなく。かてて加えて僕はその[強大な弱さ]というものに順応出来ずにいる。広島タワーの一番上から飛び降りようと決めるのと同じくらい情けない状況としか言いようがない。
「このグラスよりも……僕はばらばらだ」
「こんなにこなごなになってしまっては、もう戻すことは出来ないわね」
「その通りだ」
「ばらばらなのは、あなたの心?」
 僕は自分の両手を眺めてみた。たった今グラスを投げた手。ここに思想と夢が詰まっている――僕はその手に目線を落としたまま言う。
「……心なんて、あるのか?脳はある。肺もあるし心臓もある。でも、心なんてものはあるか?」
「知らない。見たことがないから。でも、それを言うなら心臓だって、直接は見たことないわ。特に、自分のはね。それでも、あると思ってる。それと一緒よ。心はあると思ってるわ。あなたはそう思わないの?」
「つまり、感情というのが何なのか、そういうことを都合よく片付ける為の一つの手段だろ。そういうのは、必要というか、ないといけないんじゃないのか」
「じゃあ、あると思ってるのね?」
 心があるかないか……そんなことを言う権利が僕にあるのか。それでは鋭い炎を持ったイオン・チャンネルが深い結実を放棄するようなものじゃないか。そう思いながらも、僕は答える。
「そう思わざるをえない。だって、人はどんなものにだって形を与えたがる。理由や理屈を付けたがる。だから、感情にも基因がいるんだ。それが心なんだよ」
「じゃあ、あなたは自分が人間らしいと思ってるのね?」
「そりゃあ、そうだよ。僕はそこらの人間よりよほど人間らしい」
 正直にそう答えると、女は顎の下に手をついてこちらを不思議そうに見た。
「それはどうして?」
「人間とはなんたるかをまったく理解していないから」
 女はイロニカルな機知を捨て幻影を切り抜けるように苦笑する。
「それは言いえて妙なんでしょうかね。……私にはよくわからないわ。でも、思う。一番強いのは心よ。そして同時に、何よりも弱いのが心。少しの痛みが致命傷になる。それだけで死んでしまう。私だって何度も死にかけた」
「本気で言ってるのか?」
「そうよ」
「どうして死ななかったんだよ?」
 僕はそんなことを言った。匿名なら優しく出来る。でも創作した優しさに何の意味がある?
 
 不意に女が、静けさに耐えられない訳を探すようにため息をついた。
「……この店から出ようと思ってるの」
「どうしたんだよ、急に」
「急にというか、いい話よ。この店の買い手がつきそうなの。この間ふらっと人が来てね、こういう感じが好きなんだそうよ。店を出したいと思ってるから、ちょっと考えてみてくれないかって」
 突然の話だったが、女は嬉しそうな様子だ。
「ここに住んでるのは気が楽だけど、やっぱり普通のところに住みたい気も前からあったのよ。だからせっかくいい話がある時に、潮時だと思おうかと思って」
「そうか」
 潮時、か。僕はこの言葉が好きでない。語感も字面も意味もすべて。
「それにしてもこんな店を買いたいって、随分変わったやつもいるんだな」
「アンティーク雑貨を集めるのが趣味だそうよ。古いのが好きだって」
「ここはアンティークどころか、ただぼろいだけじゃないか」
 僕が意地悪く言うと、エレメンタリーな欲得を淡くにじませるように女は笑った。
「それは反論出来ないわね。私もそう思うもの」
 そう言って女はグラスの中身を飲み干した。その横顔は酷く悲しみを帯びていて、どこにも届かない霧中信号を発しているみたいだった。
 
 ここに初めて来たのは、実に運のいい偶然によるものだった。だけれどそれ以降のなりゆきは必然だったのではないかと僕は思っている。相容れない四隅からの深い休眠の企みはうまくいった。それにしても僕とあの女の関係は本当に不思議なものだ。僕にとってはかなり実利のあるものだけれど、女の方はとてもそんな風には思えない。僕はこの女の前では限りなく横柄で、わかっていながらもそれを自ら助長し延長している気さえする。女はそんな僕を黙って受け止め、特に見返りも要求しない。まるでアンチ・シアターの策略のようなこんな一方的な関係は許されるのかとも思う。この場所での時間を過ごすということが僕にとってどれほど心いたわるものだったかと考えれば、それは計り知れない。だがこのたびの話を聞き、もうこの関係も終わりなのだと僕は悟っている。この店をあとにしたら、もう会うことは二度とない。連絡先を聞いていつか会うなんていう野暮なことは僕も女も絶対にしないからだ。今日限りで会うのも最後かもしれないと思いながら、僕は何も変わったことは言わなかった。感謝の言葉も別れの言葉も告げなかった。それが僕なりの廉潔な心情を表したつもりだったのだが、果たして女に伝わったかどうか。たとえ一切伝わっていないとしても僕は構わない。恒例の落選者展で待ちぼうけをするごとく、この先何度かは思い出すだろうけれど。
 
 ***
 
 先程、突然呼び出されたので僕はまた職場に来ていた。せっかくさっき帰ったばかりなのに逆戻りだ。接待というかなんというか、急遽決まった取引先との一大行事の為の準備の仕事だ。本来そういった雑務は僕の担当ではない。しかし緊急事態で人手が足りぬということで勝手に仕事を回された。僕はこれがいつになっても我慢ならない。一時的に突出するディスレキシアのように少しの間だけなら、これはどうしようもないことなのだと諦められることもあるが、それからあとはやはり無理だ。
 上総はあの例の電話のあと荻河の代理である企業へ出向き、担当者はどうしたと言われたという。刃を替えたばかりのカッターナイフのように修好主義的なあの男のことだから、必死になって頭を下げたに違いない。どれもこれも荻河のせいだ。本当にあいつは迷惑を創出する機械だと思う。それにしても我が社は、なぜこのような無責任な者を放っておくんだろう。しかも、こともあろうに荻河には肩書きまである。まさに尸位素餐しいそさんそのもの。年功序列というものは最も愚かしい保守主義だ。士気の向上につながらず、さらには利益の向上、すなわち会社そのものの向上につながらない。つまり荻河は止まらぬ超法規のコンサーヴァティズムによって生かされている人間なのだ。そして情けないことに僕は、そんな人間の部下でしかない。
 
 僕は今の状態に満足しているが、ここでの劣位については当てはまらない。僕は他人に懐柔されてしまうことが何より最も恥ずべきことだと思っている。相手が誰であろうと関係ない。そしてそれがその誰かによって意図されたものであろうとなかろうと。とにかく僕は、僕が僕以外の誰かによって支配されてしまうこと、それが何よりも屈辱的なことなのだ。だから実質上あんなばかげた連中の下で働くことに甘んじている自分は許せない。かと言って、僕がオブリゲイションのおぼつかない経営者になるというのはどうも違う気がする……大勢の部下に向かってあれこれ指示を出している僕なんて想像もつかない。それにそういった者になるにはやはりある程度の欲が必要だと思う。僕にはそういうものは一切と言っていいほどないのだ。巨万の富も名声もいらないし、大邸宅だって高級車(第一僕は運転免許を持っていないのだ。)だっていらない。しかし、じゃあ何が欲しい?と問われればそれはまた難題だが。
 
 ***
 
 ごく短時間の勤務を終えて帰宅したが、なんだか僕はかなり疲れ切っていた。こんな時に荻河のやつは何をしているんだろう、と思ったり、もしも爪に痛覚があったなら?などというつまらないことを考えたりしながらダストボックスのところで爪を切っていると、ベッドの上に置いた携帯電話が鳴り出し、そのベッドに寝転がっていた渚が大声で言ってきた。
「番号未登録だってー」
「ちょっと出てくれ」
「わかったー」
 僕は爪切りを置き、途中になってしまい嫌だなと思いながらも渚のところへ行き、携帯電話を受け取る。
「倉田さんだって……ねえ、はい木崎です、って言って出たんだけど、よかったんだよね?」
「ああ。ありがとう。……もしもし」
「木崎君?」
「ああ」
 電話を代わってあゆ子の声を聞き、僕はまた自分のばかばかしさを知った。今、渚に“倉田さん”と言われ、とっさに誰のことだかわからなかったのだ。
「今の、妹さん?」
「そう」
 短く答えると、正体不明な沈黙がしばらく続いた。僕はこういう時の忍耐というのが本当に苦手だ。
「あゆ子?」
「……ねえ、木崎君、今お家にいるんでしょう?」
「うん」
「お仕事は?」
 お仕事だとさ、と僕は思う。仕事をわざわざ美化語に変える必要なんかあるのか。
「もう終わったよ、今日は。あ、でも、深夜になったらまた行かないと」
「そう……大変ね。でも、それまでは時間空いてるのね?」
「ああ」
 そう答え、つまりこれから会おうということだろうと僕は壁の掛け時計を見た。ただいまの時刻は十九時十一分。出勤しなければいけないのは二十三時。もちろんこれから特に用事などない。
「夕食はもう済ませたの?」
「いや、まだだ」
 仕事の時間に合わせて遅めに食べようと思っていたところだった。すかさずあゆ子が誘ってくる。
「それじゃあ、一緒に夕食どうかしら?」
「うん。いいんじゃない」
「何よ、いいんじゃないって。ダメならダメって言っていいのよ」
 あゆ子はそんなことを言う。口調はあまり怒っているようではないが、どうなのかわからない。仕方なく僕は言い直した。
「いや、いいよ。僕が迎えに行く。少し待っててくれ」
 電話を切ると、すぐに渚が訊いてくる。
「この間来た女の人だよね?」
「そう。おまえのことを妹だって言っても信じてもらえなくて」
 僕の言葉に、未遂的な超新星爆発に利導するように渚は笑う。
「やっぱりその人、お兄ちゃんのことが好きなんだよ」
「そうらしい」
「お兄ちゃんはその人のことを好きじゃないの?」
 僕がそんなことに答える義務があるんだろうか、と思いつつ、ミニアチュールの手を少し抜いて答える。
「嫌いなら一緒に食事なんかしない」
「あ、今から食べに行くの?」
「そうだ」
「ふうん。行ってらっしゃい」
 渚はなんとなく不満そうだ。一人になったら寂しいのか……帰りにどこかに寄って何か買ってきてやろう、と僕は思った。渚が喜ぶものは大体わかる。
 
 ***
 
 例の豪奢な家に到着した。真っ暗だと随分と雰囲気が違うものだ。昨日来た時とはドアの模様さえ違って見える。時間というのは物事の様相をことごとく変える。よくも悪くも。そして、そういうことに心動かされることは素晴らしいことだ。よくも悪くも。そんなことを思いながら、僕はインターフォンを鳴らす。すぐにドアがいた。玄関で待っていたらしい。
「こんばんは、木崎君」
 あゆ子は片手でドアを押さえながら、他愛ない約束の虚実を天秤で量るようにして微笑む。
「ああ、こんばんは。……どこに行く?」
「せっかくだからちょっと入って」
 それも用意されていた台詞なのだろう、と思いながらも僕はそれに従う。もう考えるのさえ面倒で、さっさとあゆ子の言う通りにしたかった。易しく哀しい等深線は測らなくていい。たまには息も出来なくなるくらい溺れたい――昨日とまったく同じ、最後の流寓を終え目を閉じようとするエル・シーのような香りがする。
 
 そのあとは昨日と同じ流れだった。僕は昨晩あんなに不確かな気持ちになったにもかかわらず、また積極的なあゆ子に引きずられてしまっている。色欲に溺れ沈んでいくその過程は無価値以上に悪だとわかっているはずなのに。しかしあゆ子はその肢体を無駄なく費消せよとばかりに僕に迫ってきて、僕はその勢いにのまれ突然死なみの窮状に追いやられてしまうのだ。またあとから悔いるんだろうな、と僕は頭の片隅で考えていた。僕はこの人生において、とてつもなく後悔が多過ぎる。
 大人になったあゆ子の身体を眺めていて、昨日から何か既視感があった。それが何なのかやっとわかった。遥か前に絵本で見た遠い国の人魚に似ている。比較のしようのないほど黒い髪と、それがまずます映える真っ白な肌。複雑な自信を取り戻したエコーでさえ憬れそうなはっきりとした眼。少し厚めの唇は何か利他主義的な暗示を隠していそうで、真っ赤な嘘みたいに魅惑的だ。どうしてこんなに綺麗なんだろう?そう考えて、自分がそんなことを思っていることを不思議に思った。
 
 二人して黙り込んでいた時、不意にあゆ子が言った。
「ねえ、もう戻れないと思う?それとも、戻りたくないと思う?」
「何が?」
 僕は僕を見つめてきたあゆ子の目をまっすぐに見返して訊く。あゆ子はしばらく僕の目を覗き、やがてそっと視線をそらした。そして何者にも偏らない直観でパンドラの箱を開けないと決めるように言う。
「あの頃へ。私達が何も知らずにいた頃へ」
 何も知らずにいた頃――その言葉の意味することを考え、僕は真剣に答える。
「戻れない。でも同時に、戻りたくもない。いや、戻りたくないし、同時に戻れないのか……とにかく、そんな感じだ」
「私は……わからないの。あの頃、幸せだった気がする。でも、今幸せじゃないかと言われれば、そういう訳でもないの。だって、あの頃は確かに世間知らずで純真で無垢だったけど、所詮知らないことは知らないことなの。どんなことでも、知ってる方がいいわ。その為に、悪い方へ変えられちゃったとしても」
「変えられてしまったとしても……それは、変わってしまったとしても、とは違う意味?」
「えっと……それは言葉のあやだわ。自分でもわからなくなっちゃうというか、私、言葉がつたないのは昔からそうなの」
 そう言ってあゆ子はよそいきのパラフィン紙で包んだような少し恥ずかしそうな笑顔を見せる。僕も少しだけ笑った。
「つたない、なんて形容詞が出てくるだけで十分だと思うけどな」
「ありがとう。でも、とにかく私は……わからないのよ。でもね、木崎君と一緒にいたら、いつも考えちゃうの。あの頃に戻りたいような気がするような、でもやっぱりやだなって……そう、あの頃、私は何を考えてたんだろうって思うの。自分のことなのに、しかもまだ十年も経ってないのに、もう全然わからないの。今の私とは別人みたいに感じるの。……ねえ、私の言ってること支離滅裂かしら?」
「そんなことはないよ」
「でも、自分でもわからないから」
 僕はあゆ子の肩を抱き寄せる。その華奢な肩は蝋涙のリヴェットで無理矢理固定しておかないとすぐに崩れてしまいそうだ。
「それは確かにそうだと思う。本当に真剣に思っていることこそ、誰にも伝わらない」
「私達も、もちろんそうよね?伝わらないんでしょう?」
「過剰に期待しなければ、傷付くこともない」
 あゆ子は僕に身体をもたれさせる。綺麗な嬌笑が一度閉じた。
「そうよね……期待するから、傷付くんだわ。わかってるのに、どうしても無理なの。結局いつも同じことの繰り返しよ。私はばかだと思うわ」
「人間っていうのは、たぶん誰しもそういうものだよ」
 現にここに僕というどうしようもないばかがいるじゃないか。
「木崎君と愛し合えるなんて不可能なのに、私……まだ期待してる」
「期待するのは、決して罪じゃない」
「……木崎君はいつもそうだわ。なんでもわかってるみたいなこと言うの。だから、私だけが何も知らないような気がするのよ」
 そこで言葉を切り、微熱のレイリー波が少しずつ消えていくように微笑む。
「でも好きよ。そういうところも含めて。私、愛を込めて叫んでるの。愛をちょうだいって。あなたのすべてが好きだからって」
「正直に言わせてもらえば、そういうことを言うのがどうして恥ずかしくないんだろうと思う」
「照れてるの?」
 僕は首を左右に振り、それからあゆ子を抱き締めた。心許さぬ稜角を感じさせないコラーユな香りがした。
「ねえ……七年間、長かった?」
「ああ。長かった」
「私も長かった。これからの七年間は、どうだと思う?」
「これから七年っていったら、僕達は二十六か……」
 あゆ子は僕の腕の中で頷く。僕は七年という数字と、それが意味する限りなく大きな何かについて思った。
「もう、自殺出来ない歳か……」
「え?」
「絶好のタイミングは、今なのかもしれない」
 思わず口に出すと、あゆ子が怪訝そうな顔をした。
「どういうこと?」
「時々、無性に死んでしまわないといけないような気にならないか?」
 夕暮れに高架橋を上り切って人知れず特殊な風を受けるように、あゆ子は首をかしげた。
「死にたい、じゃなくて、死なないといけない?」
「そう。死にたい、じゃない。死なないといけない。どうしても、死なないといけない。そういう気持ち」
 言いながらふと、僕は何を言っているんだろう、と思った。いつも僕は今言葉を発しながら次の瞬間の言葉を探している。しかしこの言葉は考えることなく出たかのようだ。
「わからないわ。そんなこと一度も思ったことない」
「死にたい、の方はあるのか?」
「それはあるわ。たまに、すごく我慢出来ないくらい、自分が全部全部嫌になって。そういう時、もう死んじゃいたいって思う。でも、たぶん本気で思ってるんじゃないと思う。だって、私、死ぬの怖いもの」
 ペシミスティックな内容とは裏腹に、幾分明るい口調であゆ子は言った。
「自分のどこが嫌なんだよ?」
「いっぱいあるわよ。でも言わない」
 そう言っていたずらっぽい表情で笑う。それから不意にあゆ子は僕の胸に手を当て、目を閉じた。
「どうした?」
「……どくんどくんって、いってる」
「当たり前だろ、生きてるんだから」
 “どくんどくん”という非アセットな擬音語がなんとなくおかしかった。とても微妙だけれど、とても絶妙な気がするからだ。心臓の脈動が“どくんどくん”だと最初に言った人は、とてもいい表現だと思ったのだろうか。
「違うの。木崎君が、ここで生きてるってこと……私には、信じられないの。だって、これまでずっと、遠かったから。生きてるなんて実感も感じられないくらい、遠かったから。だから、木崎君が、ここで生きてること、すごく嬉しいの。幸せ」
「あゆ子……」
「ね、音聞いてもいい?」
 僕が頷くと、あゆ子はそっと僕の胸に耳をつけた。あゆ子の耳は虚無の因果律を否定するように冷たく、心地いいのかまったくその逆か、よくわからない。しばらくそのままの姿勢でいたあと、あゆ子はゆっくりと耳を離した。つけた時よりもさらにそっと、まるでエリジウムのミカドアゲハの羽の色を眺めるみたいに。
「……すごく強く生きてるわ、木崎君」
「あゆ子は?」
「聞いて」
 あゆ子が身体を起こし、壁に背を預ける。僕はあゆ子の左胸に耳を押し当て、その規則的な鼓動を聞いた。わずかに聞こえてくるその数を数える。一、二、三、四……決して届かぬ高いスカイライトに落ちる雨音のようだ。そしてその天窓から見える空は驚くほど広い。
「あゆ子も、強く生きてる」
「よかった」
 あゆ子は微笑み、僕の首に装飾的な口づけをした。それでも僕の頭の中にはまだ雨が一、二、三、四、と降っていて、その水を思うとどういう訳か無性に喉が渇いた。そういえばこの何時間か何も飲んでいない、と思う。最後に飲んだのはあまり美味いとは言えないインスタントコーヒーだった。
 
 生きているということはどういうことだろう、と思う。僕は今生きているけれど、いつから生きているのか、いつまで生きているのか、それを考えると脈理がまったく不明で気が遠くなりそうだ。もちろん僕が誕生したのは十九年前だ。それは両親の届けに偽りがない限り、理詰めのネオクラシックに傾倒するほどはっきりとした事実だ。でも生きているということだけで言えば、母親の腹にいた頃だって当然生きていたことになる。それこそ今と同じように心臓はどくんどくんといっていたのだ。僕は信じられないけれど、覚えていないだけで自我だってあったかもしれない。救済されたいと願っている自我が。さあ、どこから僕は生きているということになる?人間としてすっかり形作られた時か?身体となる成分が出来始めた時か?それとも……
 それにしても、兄が――そう、兄が昔、同じようにして浮かんでいた羊水の中に、僕はいたのだ。僕は突然にその事実に気付いた。同じ羊膜の中で彼と僕は生きていたのだ。まるで優越感にさえ似た世諦(せたい)を知ったような気がする。もしかするとこれは己の了覚の第一歩かもしれない。わからないけれどそれが、それこそが――僕がずっとどこかにあると思っていた兄とのつながりなのではないか?
 
 兄にまつわる結果の衝突的な一端を見つけた興奮と、あゆ子が僕に与えようとするリュクスの極みのような快絶に神経をやられ、僕は意識を失ってしまいそうになる。ついでに彼女のことも忘れてしまえればいいのに、と思うけれど、そんなことは無理な話だった。心にもないことを、という思いが同時にあるからだ。彼女はいつだって美しい秩序を創造するように微笑んだ。それが僕のにある限り、僕が彼女のことを忘れるなんてありえない。未来が過去より大きいなんて誰にも言えない。だから人々は皆まるで誰かを傷付けるようにして生きている。僕は背徳的な役割を演じながらそう知った。思わず目を閉じた僕の腕の中で、あゆ子がつぶやくように言う。
「ごめんね、木崎君、……本当は好きな人いるんでしょう?」
「いないって……何回言わせるんだ」
「でも……すごく悲しそうで」
 悲しそうだって?普段ならそんな風に決めつけられたらすぐに腹が立つところだ。しかし今は兄についての致死的な幻想が頭の中をぐるぐる廻り、そんな気は起こらなかった。
「あゆ子だって……泣いてたじゃないか」
「あれは嬉し泣きよ。思わず出ちゃったの。木崎君のこと……ずっと好きだったから」
「あゆ子、気付いてない訳ないよな。男にもてるだろう?どうして俺なんかが好きなんだ」
 感情の命じる道徳に従い素直にそう訊くと、あゆ子は小さく笑った。
「木崎君が冷たいから」
「冷たくなんかないよ」
「……私、いろんな人と出会ってきたわよ。きっと、木崎君が想像してるよりもずっと多く。確かに、好きになってもらえるのは悪い気しないわ。だって、私の為に色々してくれるのは、やっぱり嬉しいことだから。でもね、そういう生ぬるい幸せってすぐ飽きちゃう。耐えられないって訳じゃないの。熱湯じゃないから。でも、嫌になって逃げたくなる。そう……どう言ったらいいのかわからないけど、なんかね、冷たい水に思い切って飛び込みたいって思うのよ。すごくつらいけど、頑張ってつかってようって思うの。わかる?」
 その論理はなんとなくわかるような気はするけれど、完全には理解出来ない。あゆ子は続けた。
「木崎君はどういう愛が好きなの?」
 彼女とのやけどするくらい熱い愛を思い返した。今もこの先も忘れられない、コンプレックス・リキッドに濡れた月の力をもってしても冷やせないほどの愛――でも僕は何も言わなかった。とてもじゃないがそんなことは口に出来ない。代わりに僕は目を閉じてあゆ子のランプ・ブラックの髪を撫でた。目を開けていても閉じても、もうあの赤いリボンはちらつかない。
「……ごめんね、木崎君」
「どうして謝るんだよ」
「だって……好きなんだもん」
 あゆ子の頬を涙が伝った。上品な紙クロースの表紙でも触るみたいに、僕はあゆ子の肌を撫でる。
「木崎君、愛してるって言って……」
「ああ……愛してる」
 半分どこかのコインロッカーに入れたまま忘れてきたような曖昧な心で言った言葉は、果たして何を願っていたんだろう。
 
 確かにあゆ子は泣いていた。でも実際のところは僕の方が激しく泣いていたんだと思う。なんだか何もかもが悲しかった。今の物の数でもないような暮らしを省みると、僕がこれまで生きてきた十九年間がすべて無駄なもののように思えた。自己自身を解き明かすことが嘘の欠片を身にまとうことに他ならないと感じる。不意にあの古書店の老人が言っていた言葉を思い出した。世の中には無駄なことなんかないとかいうのはただの綺麗ごとだ、という言葉だ。
「世の中には無駄なものが山ほどある。それこそ無駄な人間だっているんだ。この世のすべてのものには意味があり必要だなんて、成功した者だけが言えるユーモアだ」
 その時、確か僕はこう返した。
「どうしてそのことがわかったんですか」
「そりゃあ、私自身が無駄なものの一つだからだ。これ以上ないほどに自覚している」
「本当に自分を無駄だと思ってるんですか」
 僕にその言葉はにわかには信じがたかった。しかし老人はセンシティヴな不実の含まれた名誉を瞥見するように言う。
「仕方がないさ。それが現実だ。生きていくには、現実を生きていかなければいけない。それがどんな現実であろうと」
 老人は自分自身に言い聞かせるようにそう語ったが、たぶんそれは僕に向けて言っていたのだと思う。必死になって現実から逃れようとしている僕に、現実逃避では生きていることにならないぞ、と暗に戒めていたのだ。
 
 ***
 
 先程のあゆ子との一件を嘘のように忘れ去り、アイソスタシーをねじ曲げられた漸進主義者のような気分で僕は自分のデスクに座った。一日に何度職場に来れば贖罪が済むのだろうかと思うが、これも仕方のないことだ。いや、でも仕方ないでは済まされない、これがこの先ずっと続くのだから。そんなことを考えながらサンドウィッチを食べ、缶コーヒーを飲む。結局あゆ子とは食事なんかしなかったので、職場のすぐそばのコンビニエンスストアで買い物をしたのだ。
「ああ、木崎君、お疲れ様です」
 上総がこちらに近付きながら片手を上げてそう言う。僕も根本的でありきたりな会釈で応じた。
「上総さんこそ、お疲れ様です」
「僕はずっといますから。今日もたぶん徹夜ですし。でも、何回も来るの面倒でしょ」
「いや、徹夜の方が大変ですよ」
「僕はいいんですよ、少し仮眠を取っとけば。ところでこれ、同じサイズのクリアファイル、持ってます?出来れば二、三枚」
 上総が手に持った透明のファイル。あまり使わないB5サイズのものだ。
「あ、たぶん持ってます」
 僕はデスクを少し探し、見つかった二枚を上総に手渡す。一瞬触れ合った手の間を酷くラジカルに静電気が襲った。微弱なはずの攻撃にしては結構な痛みを感じた。しかし上総はまったく気付いていない様子だ。
「よかった。ありがとうございます。それが、もう残りがなくなってて。訊いてみたら、荻河さんがごっそり持ってったって言うんですよ。かと言って、荻河さんのデスクを勝手に見る訳にもいかないですし……」
「そうだったんですか」
 僕も上総と一緒になってため息をつく。通底した大それたことでないつらさを分かち合うということはわずかな快感を伴う。まさにこの理不尽な上司に悩まされているという連帯感だ。
「木崎君もかわいそうに」
「上総さんこそ。長いですよね……七日間」
「本当ですよ。こうやって周りの人間に苦労させて、自分だけ悠々としてるんですからどうしようもないですよね」
 それを聞いて、不意にあの老人の台詞を思い出した。笑いながら言われた「人生イコール苦労だからな」という言葉だ。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ、なんて言うがな。ありゃあ嘘だ。買おうとしなくても、無理矢理買わされるんだから。ただの押し売りみたいなもんだ」
「そういうものですか」
「しかも返品も交換も受け付けちゃくれない。クーリング・オフなんてものもない。……人生イコール、苦労。そういうものでしかない」
 ……僕はありありとそんなやりとりを思い出したが、そんなことを今の上総に言ってもなんともならないだろう。じゃああの荻河さんの人生も苦労だって言うんですか!などと怒り出しそうだ。
 
 今日はやけに老人の言った言葉を思い出すな、と思った。いちいち引用しているみたいで気恥ずかしい気もするが、老人の台詞はただの一介の言葉に分類するにはいささかもったいないのだ。やはり八十年強、僕の四倍以上を生きてきているだけのことはある。喋る端々に人生分の重みが感じられ、生きることとは一体何かという永遠の課題のヒントがにじんでいるように思う。もちろん、ただ老人はアトラクティヴな才気を発揮しているだけで、ヒントうんぬんは僕の自分勝手な思い込みという可能性もないことはないが。そう、生きることとは一体何か……老人は八十年以上生き、僕から見れば人生についてかなり多くを知っているように思う。それは“生”の期間が長いゆえだけなのか?それはつまり“死”に近付いているということと裏表か?僕もいつか――生きることが何かわかるのだろうか。
 
 ***
 
 なんとか日付が変わるより前に職場をあとにし、なんということもなくいつも通り夜の街を歩いていたつもりだった。それがまた唐突な疑暗に陥り、僕は思わず足を止めた。朝に不意に出会ったあの香りが、また鼻をかすめたのだ。まったく同じ香りだ。つまり僕のあの部屋の香り。まるで濃い欺瞞のパーコレイターから漏れ出ているかのように僕を覆う――でも朝とは場所が違う。一体どういうことなんだ?
 たぶん無駄なことなのだろうと思いながらも、僕はあの部屋について改めて考えてみる。狭い洋室――片側は窓で、そこにはカーキ・カラーのカーテンがしてある。床は何も敷いていなくてむきだしのまま。結束する相手のいない僕の分身のごとき机と、涸れ始めた涙のキャパシタを濁らす棚と、限られた自由の確率誤差を捨てたクローゼットが置いてある。机の上はあまり物がなく、置き時計と少しの筆記用具とCD数枚くらいがすぐに思い浮かぶ。たぶんそれだけで全部だ。そして棚には本がこれでもかと詰めてある。辞書以外は大体がフィクションものだが、中には自伝などもある。それからクローゼットには当然服が入っている。身体に合わなくなったものはすべて捨てるので、大分スペースが空いていた。他には特筆すべきようなことは何一つないと思う。ありふれた部屋だとしか思えないが、どういうことなのだろう。この現象そのものが何か象徴として深い意味を持っているのだろうか?そしてそれに恭順の意を示すべきなのか?何もかもがわからない。でも訳がわからず不快だというだけではない。何かとても心を掴まれる――とても惹かれる。
 

 未成年⑦ 六日目(Friday)に続く


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