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芸術の秋、友人の個展を見に上京する。

画家であるのにうかつにもあまり考えなかったことですが、絵を見るのと個展を見ることの間には違いがあって、特に作品数が多くなると鑑賞者が抱く感想は、一枚の絵に対するものとはカテゴリーが別だと思います。

今回観た「小林哲郎展」は近作だけで構成されているからなのか、そこで感じたのは、因果関係を持った作品群が織りなすひとつの歴史と言うよりも、極小から極大まで本来同時には見渡し得ない多様な物質の生起する様々な空間、言わば宇宙の諸相を見渡しているような感覚です。

あるものは小さな世界で起きた化学変化の結晶であり、またあるものは巨大な造山運動の痕跡です。しかし一番心惹かれたのは、崩れゆくものがまだ均衡を得ることが出来ず、不安定感を残している作品です。結果ではなく始まり・道半ばと言うか、動きの記録ではなく何もまだ決まっていない捉え難い今・この時を伝える作品でした。

あえて言えば、未完成で、充足していない、まだ何かが足りない作品にこそ惹かれました。作者である小林哲郎氏は西欧絵画の正当教育を受けその王道を歩んできた画家、言わば画面均衡の達人です。その彼が妥協なく構成する世界はすでにひとつの極に達しています。それら確かな作品の中で鑑賞者は自身の思いを寄せてそこに浸ることができます。

しかし、私は絵も描く鑑賞者です。もしかすると鑑賞による情動が、一筆加えたい、悪戯描きをしたいそんな気持ちを引き起こし、それを許してくれるような隙のある作品を、強くとも優しい懐の深い作品を求めているのかも知れません。

ここまで書いてきてふと思い出しました。私の一番好きな絵、ラスコーの壁画、完成も未完成もなく、誰かが描いたものに更に重ねて描く。経年の剥落や他人の加筆などに動じない強靱な原初的な絵画、そこから遙かに遠のいてしまった現代の絵画のなかで、こんなことを振り返らせる要素を小林哲郎氏の作品は孕んでいるのです。

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