[レビュー]「非展示」という方法について|井上幸治 「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展(東京都現代美術館)

本展について語るまえに確認しておきたいのは、美術館とは絵画や彫刻といった美術作品を展示する場所であると同時に、それらの作品を展示しない場所でもあるということである。しかし、「非展示」という方法を美術館が有していることはあまり認識されていない。何故なら、美術館の公共性に対する盲目的な信頼が、美術館の中立性を疑わせないからである。美術館の中立性に疑いの眼差しが向けられることは少ない。そうしたことが起こるのは「規制」や「検閲」といった問題が発生した場合に限られる。

一般的に「規制」や「検閲」による問題は作家の側の視点から語られることが多い。しかし、美術館にとってもそれはあまり好ましい状況ではない。何故なら、それまで知覚されることのなかった方法が可視化されることで、自身、相対化することが可能な対象と認識される恐れがあるからである。美術館において「非展示」という方法は決して例外的な選択肢ではない。それは日常的に行なわれている選択ともいえる。しかし、権威を相対化する視線から自己を守るには、このことは隠蔽され続けている方が望ましいことであることは想像に難くない。

こうした状況を美術史家の千野香織は「ミュージアム展示とは『作品』である」[note.01]と説明してみせる。つまり、ミュージアム展示とは、そこに何を展示し、何を展示しないかを決定する学芸員の「作品」であるということである。千野の見解は当然、何故、作品Aが展示され、作品Bは展示されないのかといった疑問に答える責任が学芸員にあることを前提にしたものである。しかし、そうした責任が果たされることはあまりない。たいていの場合、責任の所在は曖昧なまま放置されることになる。残念ながら千野の期待は裏切られ続けている。しかし、千野の論が今日でも有用なのは、それがただ説明責任を期待するものではなく、私たちに「ミュージアムの非展示とは問題を隠蔽するシステムである」[note.02]ということを自覚させるからである。

[note.01]千野香織「戦争と植民地の展示―ミュージアムの中の『日本』」(栗原彬ほか編『越境する知1身体―よみがえる』東京大学出版会、2000年、110頁)。千野がここで「ミュージアム」という言葉を用いるのは、「ミュージアム展示」の問題を、博物館や美術館といった区分を超えた問題として提起するためである。
[note.02]同上、137頁

「非展示」に対する自覚とは、千野の言葉を借りれば「『展示しない』ことにも大きな意味がある」[note.03]ということを知ることである。こうした観点から本展を見直してみると、イメージの不在が目立つ展覧会ではあるが、そこにあるイメージの不在は「虚無」などではなく作られた空白であることに気が付くだろう。そこにある空白は、ある目的をもって作られた偽りのイメージである。従って、ここで求められるのは「空白の意味」を探ることである。この時、手掛かりとなるのは偽りのイメージが消すことのできなかった痕跡である。一見すると、そこには何も残されていない。しかし、そこには消すことができなかった痕跡が確かに残されている。そこに残された痕跡とは、そこに作品があったことを「保証」するキャプション(文字情報)である。

[note.03]同上、121頁

藤井光《爆撃の記録》2016 「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展示風景 撮影:椎木静寧

キャプションに記された文字情報(作家名、タイトル、素材)が保証するのは、「不在の存在」である。それは私たちに、今はそこに存在しなくても、そこに存在するべきモノがあるということを教えてくれる。たとえば藤井光の作品は、忘却されようとしている歴史の記憶を「想像の祈念館」として作品化するものであるが、藤井の「展示しない」という行為が作品として成立するには、キャプションやパネルに記された文字情報が必要不可欠である。それらがなければ、私たちはそこで何かが隠蔽、忘却されようとしていることを知ることができないだろう。藤井はここで「非展示」という「忘却を強いるシステム」を上手く逆手に取って、そこで何かが隠蔽されようとしていることを観客に提示しようとしている。しかし、藤井がここで再現しているのは忘却されようとしている歴史の記憶ではない。藤井が再現演出しているのは「非展示」という方法そのものである。

ここで明らかにされるのは、キャプションさえあれば、「展示されていない」という結果だけを見せても、それが作品として成立してしまうということではなく、美術館という権威が、それを(「展示されていない」という結果を)、作品として許可し正当化していることである。つまり、藤井がここで再現しているのは、「展示されていない」ことの理由が、作家による自主規制であろうと、美術館による検閲であろうと、何であれ、それを(「展示されていない」という結果を)、「作品」としてしまう権力の暴力性である。

こうした暴力性に対して千野が求めたのは、「ともかく展示を始めること」[note.04]であったが、残念ながら、ここではイメージを「展示する」ことでなく、「展示しない」ことが選択されている。権力の構造を明らかにするはずの身振りが、何時しか構造の強化へと繋がり、やがて従属の欲望となるかもしれないと危惧するのは杞憂かもしれないが、「ともかく展示を始めること」を始めなければ、本展における諸問題は、「キセイ」という言葉に反応して顕在化しただけのこととして終わってしまうだろう。

[note.04]千野はここで「ともかく展示を始めることが、緊急の課題である」と述べると同時に、「ただしもちろん、担当学芸員の身の安全は守られねばならない」と述べているが、美術館展示においては、当然、作家の身の安全も守られねばならないことである(同上、137頁)。



井上幸治|INOUE Yukiji

1974年長野県生まれ。美術批評。主な論文に「震災という未曽有の出来事を経験しても『自然とは何か』という問いが日本の現代美術から発せられないのは何故か」(『組立‐転回』、組立、2014年)、「風間サチコ論―植民地表層の現在」(『美術手帖』第15回芸術評論募集入選、2015年)などがある。


展覧会情報

http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/mot-annual-2016.html


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