[レビュー]本当に消去されているのは誰なのか――小泉明郎展「空気」(無人島プロダクション)|井上幸治


会場に展示されていたのは東京都現代美術館で開催されていた「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展のために制作されたものの、作家による自主検閲という判断により展示されなかった作品です。「キセイノセイキ」展ではキャプションしか展示されていなかったので、「空気」展の会場でその全容を確認出来たことになります。展示されていたのは写真を素材としたイメージですが、素材として使われていた写真は一般的な皇室写真で、昭和天皇の行幸写真から、最近のものでは福島の避難所を慰問する今上天皇と皇后の写真が使われています。特徴的なのは皇室のメンバーだけが絵具で塗りつぶされ、背景と同一化されていることです。デジタル技術を使うのではなく、絵具によって消去されていることから、意図的に消去した痕跡が残されていたと考えますが、消去されたイメージ(人物)の痕跡を眼にして驚くのは、本来なら、消去されたことによって、そこに映っていた人物が誰であるのかは分からなくなるはずであるのに、それが誰であるのかが、瞬時に分かってしまうということです。

何故、消去されたはずの人物が、誰であるのかが、見ただけで分かるのかというと、それがそれだけ日常的に慣れ親しんでいるイメージであるからです。つまり、ここでは天皇という表象を消してみせることで、如何にそれが私たちの潜在意識の中にある存在なのかということが逆説的に証明されているわけです。それは見えすぎているゆえに、見えないイメージであるといえますが、天皇という表象の可視性の高さが、その本質を不可視なものにしているとしたら、小泉の消去の痕跡を残すという方法は、そこに見えていないものがあることを教えるものといえるでしょう。

「キセイノセイキ」展に話を戻すと、見えすぎている点において、小泉の作品はもっとも秘匿性の少ない作品であったはずです。実際、小泉が、ここで使用している写真は、どれも戦後の象徴天皇制が成立するのに必要とされ、使用されてきた画像であって、決して秘匿されてきたものではありません。それらは見えすぎるぐらい見えるものとしてメディアに流通していました。しかし、作品は展示されませんでした。その理由を求めるとしたらイメージの操作性に問題があると見なされたと考えるしかないのですが、今は、戦前のように天皇を知的な対象としただけで、「不敬」と罰せられる時代ではありません。従って、そうした理由で作品が展示されなかったとしたら、それは決して許されるべきことではありません。しかし、どのようなイメージ操作が行われ、そこにどのような問題があるのかを探ることは無駄なことではないでしょう。

たとえば、ここでは天皇の身体を消去することで「空気のように透明な存在」としての天皇が描かれていますが、「空気のように透明な存在」として描かれる天皇が意味するのは抽象的な存在としての天皇であって、具体的な身体を持った天皇ではありません。つまり小泉の消去という方法によって可視化されているのは、身体性を失った「機関」としての天皇であって、具体的な身体を持った人間としての天皇ではないということです。小泉の作品は身体性を失っても天皇制が機能してしまうことを明らかにします。しかし、ここで問題としたいのは、身体性を剥奪された天皇の人格です。たとえば、小泉はここで「なぜ天皇という人間を美術作品で扱い展示することが困難なのか」という問いを立てていますが、ここで要求されている「表現の自由」の中に、表現の自由を制限されている天皇の人権は含まれているのでしょうか。

仮に小泉のいう「天皇という人間」が、具体的な人間としての天皇を意味するものであり、尚且つ人間としての「天皇の肖像」を描く意思が彼にあったとしても、その目論みは失敗しているのではないでしょうか。

何故なら、小泉の作品から読み取れるのは、近代以前は不可視な存在であった天皇が、近代化以降に可視化されることで形成してきた道徳的な天皇像、或いは理想的な家族像とは、実は背景にいる国民が密かに宿している欲望でもあったということであって、そこにこれまで形成されてきた天皇のイメージを覆すイメージまでは用意されていないからです。大多数の国民が道徳的で模範的な天皇像を求めるのは、それが集団内の関係性を強化するために必要なイメージであると認識しているからでしょうが、集団は集団の同一性と親和性が維持されるためには他者を排除することも厭わないことも忘れてはいけません。実際、模範的なイメージ(たとえば家族像)を逸脱していると思われると猛烈なバッシングが起きます。こうした状況では天皇の人権が確保されることも、天皇を一人の人間として表現することも出来ません。これまでに形成されてきた模範的なイメージを覆すイメージが用意されていないということは、そこから逸脱する用意もなされていないということです。

おそらく小泉作品の一番の問題点は、天皇との同一化に対する疑いがないことです。何故、天皇との同一化に対する疑いがないと思うのかというと、天皇との同一化に対する疑いがあったならば、作家による自主検閲という判断は成されなかっただろうと思うからです。もし、そこに天皇との同一化に対する疑いや、それを受け入れられない人たちの存在があったならば、作家による自主検閲という判断が成されたでしょうか。私は成されなかったと思います。

消去することで描かれる人物のシルエット(輪郭)は、「天皇の肖像」ではありません。それは作品の前に立つ私たちの姿を投影したシルエットです[note.01]。そこに投影された影は、私たちを作品の中のイメージに引き込みます。そこから離れるにはイメージとの同一化を疑うしかありません。もっとも今は、それが難しい時代です。たとえば高橋哲哉は「爆心地に立つ天皇」という論考の中で[note.02]、広島で被爆した老婦人と天皇を同一化することで語られる日本人の「戦争の歴史」が、いかに他者排除によって成立しているものかを指摘し、批判していますが、同様の批判を被災地の避難所を訪れる今上天皇に対して向けられるでしょうか。被災地で国民を慰撫し、励ます天皇のイメージを疑うことは難しいことです。しかし、昭和天皇と今上天皇との別人格を承知していても、天皇との同一化を受け入れられない人たちがいることは知るべきことだと思います。

何故なら、ここでは「展示されなかった」という欠如に対しての回復が、画廊での展覧会、さらには作品が公的空間から排除されたという議論によって試みられていますが、本当に解消されなければならない欠如とは、集合的記憶として形成されてきた天皇のイメージから排除されている人たちの存在だと思うからです。作品から(つまり私たちの視線から)、本当に排除、消去されているのは誰でしょうか。もし、その人たちの存在が忘れられているとしたら、そこにあるのはただ承認を求める議論でしかないと思います。


[note.01]たとえば大浦信行は昭和天皇の写真をコラージュした自身の作品(《遠近を抱えて》)を「自画像」と呼んでいるが、このことの意味を、もう一度考えるべきではないのか。
[note.02]高橋哲哉「爆心地に立つ天皇――ナショナルな「記憶」の(再)編成をめぐって」『証言のポリティクス』、2004年、未來社


展覧会情報

http://www.mujin-to.com/press/koizumi_2016_air.htm


井上幸治|Yukiji Inoue

1974年長野県生まれ。美術批評。主な論文に「震災という未曽有の出来事を経験しても『自然とは何か』という問いが日本の現代美術から発せられないのは何故か」(『組立‐転回』、組立、2014年)、「風間サチコ論―植民地表層の現在」(『美術手帖』第15回芸術評論募集入選、2015年)などがある。



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