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[論考]都市と無意識――素描的試論|信友建志

信友建志|NOBUTOMO Kenji
思想史、精神分析。1973年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了、鹿児島大学医歯学総合研究科准教授。主な共著書に『メディアと無意識』(弘文堂)、『フロイト=ラカン』(講談社)など。訳書に『哲学の犯罪計画』(ジャン=クレ・マルタン著、法政大学出版局)、『ラカン、すべてに抗って』(エリザベート・ルディネスコ著、河出書房新社)など多数。



0.

レム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』日本語版には、磯崎新の解説が付されている。

タナトスとエロス、瓦礫とロボトミー。磯崎はそう簡潔に、お互いのスタイルに触れている。患者同士の奇妙なエールの交換だろうか。しかし、ここでは互いの症状が互いのスタイルであり、それは奇妙な錯乱体としての都市に建築というかたちで関わる人間が、自身の作品がひとつの都市の症状でありつつ、同時にその都市の症状の分析でもある、という奇妙なループが簡明に語られている、といってもいい。

それから30年ほどの歳月が過ぎたこんにち、建築あるいは都市に、無意識という言葉を並べた論題はあまりになじみのものとなった。露骨に社会工学的な純粋な都市開発論でもないかぎり、そのテーマはどこかで混入しているようだ。しかし、それでもこのテーマになにがしか付け加えたい誘惑に駆られるのは、そしてそれを正当化できると思うのは、たとえばこの偉大な建築家たちのような、なにがしか能動的なエージェントでなくとも、やはりだれもがこのループに、つまり自身が都市の症状でありつつ、またそうであるがゆえに、同時に都市の分析でもある、というループに巻き込まれていることについて述べる必要があろうからである。

しかし、それにしても奇妙なことではある。もちろん、ひとつの創作物としての建築を、ある建築家の精神構造から生まれたものとして、病跡学的に分析する、というのであれば、それは(その意義を認めるかどうかはともかくとして)それなりに古典的な正当性を獲得していると言えるだろう。都市計画、というレベルであってさえ、たとえばパリのそれをオスマンの精神病理の産物として病跡学として捉えることは100%不可能というわけではない。しかし、おそらくここで磯崎らが見ていたものはそういうことではない。集合的無意識という言葉を使うかどうかはさておき、ある種の奇妙な欲動のようなものがうごめき、意志とまでは言わずとも、かたちも定かならぬある種の自律性をもって変化していくさまだ。だからこそ、さしあたりそれは都市の固有名を冠するかたちで、つまりある種のバスケット概念としてしか人称を持ち得ない、非人称の力に見えてくるのである。

精神分析が、その起源から都市に惹かれていたのも、あるいはそのせいかもしれない。周知のように、フロイトは無意識をローマに擬えるのが常だった。のちに触れるように、フロイトが明示的に挙げているそれは無意識の層状構造に関係するものだが、もうひとつ暗示的に触れているそれは、無名匿名の群衆としての無意識の構造だ。これが人間の身体、自我境界としての皮膚に一致する必要はなにもない。しかし、別の文脈でフロイトがナポレオンをもじって「解剖学は運命」と言ったように、それはおおかた皮膚と一致する。都市もまたその地理的条件と、そしてその建築素材の物質的条件を運命としつつ、そこに群衆を構造化する責務を負っている。

それが同じひとつの権力から発して行なわれる、同一構造の押しつけなのか、あるいはより自発性を持つ同時代的なものなのか、あるいは都市に住まう人間が適応するためにその都市をモデルにおのれの主体性を理解するのか、あるいは人間を快適に住まわせるために都市が主体の構造に似せておのれを作るのか、それは定かではなく、本稿もそれを決定する立場は取れない。しかし、それでもここで描いてみたいのは、ある種の構造同値性、つまり、主体と都市は双方がともに、空間の比喩有効性を失いつつあり、時間の一表現形態へと取って代わられているように思える、という仮説である。

新自由主義社会における、公共空間、公共建築物の全面的な私有化はつとに語られている。その意味で、都市はますます純粋な資本の表現形態へと近づきつつあり、都市を流れる時間はますます純粋な資本循環の時間へと還元されるようになる。空間性を欠いた構造化が、それでも可能なら、そこに生きる主体の構造もまた、空間性抜きで描くことが可能になるはずだ。しかし、現在のところそのようなかたちで主体の構造を描くことに、精神分析は必ずしも成功しているわけではない。しかし、近年の症状構造の理論化のうちのいくつかは、それに近いものを描いているようにも思われる。本稿はその明示的とは言えない親近性を少しでも明示的にするための、予備的、準備的考察としての役割を担うはずである。



1. 群衆の二つの様相――都市と主体


都市は簡単に病気になる。昔から。

こう言うとき、わたしが意識するのは中国史であるが、それは単にわたしの知っているもののなかで一番それが古そうだから、というだけである。しかし、音楽、都市、そして人倫は中華的思惟のなかでみごとに同一構造を描くものとして考えられており、それゆえ、その歪みが病として、しかもおのおのの都市国家特有の病として簡単に診断できる。現に孔子をはじめとする儒家はしばしばそれを行なっている。この発想は、音楽を差し引けばこんにちにおいてもそのまま多くの場面で通用することだろう。いや、近代都市ニューヨークの喧噪を交響曲に擬えたというマーラーなら、あるいは疑似アドルノ風の文明批判なら、音楽を排除する必要もないのだろうか。

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