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未完成の鮮度

セザンヌの絵が好きです。

セザンヌというのはいわゆる後期印象派と呼ばれる時代に活躍していた画家で、
近代絵画の父と呼ばれたりもしてますね。


小難しい話は置いといて、僕の好きなセザンヌの絵はこれです。

赤いチョッキの少年


セザンヌというのはめちゃくちゃ有名な割に何がすごいのよくわからなかったんです。

約10年前僕が絵を始めた時に、描くことだけじゃなく時代を遡って絵の歴史を勉強することも大事だと思い、
美術史なるものも勉強していたんですが、
そこで僕の脳みそにどでかいクエスチョンマークを置いていった画家がこのポール・セザンヌという画家です。

当時この画家の何がすごいのかわからず、特に気になる絵もなかったのでなんとなくポール・セザンヌという名前を覚えただけでした。


ただポール・セザンヌという固有名詞だけを覚えた状態で専門学校に通いながら製作に励み、自分が描きたいことを表現することに一点集中する日々が続いたある日の授業、
美術館に行くという授業がありました。

僕がセザンヌのこの絵に出会ったのはその日でした。

赤いチョッキの少年


デッサンのような基礎練と美術史をなぞるだけの自主練をしていた時にみたセザンヌと、
専門学生とはいえ一日18時間絵のことを考え、作家として何を表現していきたいかを友達も作らずに一心不乱に考え描いている時にみたセザンヌではまるで違いました。

少し専門的な話を一つだけ。
この少年の右腕、アホみたいに長いんです。
つまりデッサンがくるっているんです。

もちろん僕もみた瞬間に気づきましたが、
その時デッサンがくるった絵というよりもこの絵はとんでもないことをしようとしている過程の絵なんだなと思ったんです。

-----そもそも印象派とは-----

とんでもないことをしようとしてたんだなと感じた根拠としてこの絵が描かれていた時代の話を少しだけ。

時は、宗教画のような表現の幅が少ない時代に飽きてきた時代。
そこに写真の技術と持ち運び可能な絵の具チューブの技術が追加されます。
(チューブの前は、絵の具は顔料とメディウムを混ぜて自作していました)

それらが画家にもたらしたものは外での制作でした。

写真があるのなら本物そっくりに描いても仕方ない。
絵の具が持ち運びできるなら外に描きに出れる。
という感じです。

色を色のまま表現するのではなく、色をキャンバスの中で分解した上で一つの色にする。
簡単に言うとこの運動が印象派です。

要するにこの時代というのは色の時代だったと言えます。

---印象派から後期印象派へ---

画家達が色を分解するのにも飽きたころ、アクの強い画家達から順に作風が尖っていきます。

簡単に言うと、印象派を自分流に派生させた画家達の運動が後期印象派です。


彼らは独自に絵を発展させました。
といってもやはりその技術や考え方は印象派からきています。


とても簡単にいうと後期印象派の運動は色の発展です。
印象派の色の分解というのはあくまでも実物の色に沿った考えなのに対し、
後期印象派の画家達が描く絵の色はあまりにも現実的ではない配色になっています。
(ゴッホやゴーギャンが顕著)


そこでもう一度セザンヌの話に戻ります。

赤いチョッキの少年


ゴッホやゴーギャンと同じ後期印象派のセザンヌはどうかというととんでもなく普通の配色です。

つまり色を発展させているわけではないんです。
なのになぜセザンヌは後期印象派の画家に分類されているのか。

------僕の偏見------



僕の偏見ですが、セザンヌは後期印象派の画家ではないです。

後期印象派と呼ばれる画家達と同じ時代を生きたというだけで、
セザンヌのやろうとしていたことはあまりにも異質でした。

セザンヌは色ではなく幾何学を発展させようとしていました。

赤を赤以外の色で表現しようとしていたのが印象派や後期印象派なら

セザンヌは丸や円を四角や直線で表現しようとしていました。

それがセザンヌが近代絵画の父と呼ばれる所以だと思っています。

セザンヌのやろうとしていたことはのちにキュビスムという形で完成します。
(そのキュビスムを完成させたのがピカソです)

つまりセザンヌは後期印象派ではなくキュビスムの画家なんです。



ですが僕はキュビスムが好きというわけではありません。
むしろよくわかりません。
ピカソが完成させてしまったキュビスムに僕はあまりワクワクしないんです。

僕がセザンヌの絵を見た時にワクワクドキドキしたのは彼の絵の未完成さだったんだと思います。
これからどうなるかセザンヌ本人にもわからない。
けれども無性にそれがしたかった。
時代のことを無視し、自分が表現したい絵をとことん突き詰め、結果完成はしなかった。
けれどその軌跡全てがセザンヌの絵なんです。


作品として未完成なのではなく、セザンヌとして未完成。
セザンヌは完成させたかったはず。
未完成のまま生涯を終えることは不本意だったはず。
でもそこが愛おしく、色気を感じる。


自分で自分に100点を出せるまで絵を描き続けたいけれど、自分で自分に100点を出したその日に作家は終わるのかもしれませんね。


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