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やさしさ探しの旅


「優しいって言葉が嫌い」

〜って優しいよねって送ったら返ってきた言葉だった。

僕がその人に貼ってしまったレッテルだった。




普段自分は友達に「優しいよね。素直だよね」と言われる、親族に「いい子だね。えらいね。」と言われていた。その度に少し心のどこかで「そんなことない。」と心に潜む悪魔みたいな自分が顔を出す。
この人に自分は優しい人に見られているという意識をするようになってしまって、"そうあらねば"とこれまた、真面目なのか素直なのか、無意識のうちに心掛けてしまう。
そんな風に自分が無意識のうちに囚われることに息苦しくなって、ある日高校の友人に「自分のことを素直だとか優しいとか言うけど、本当はそんなんじゃないんだよ!」と言ったことがある。それを聞いた友達は自分だってもっと本当は最悪だとエピソードを話してくれた。
それでひと通りエピソードを話し終えた後に

「ずっといい人でいようとしなくていいんだ」
と言ってくれた。
何故か、わからないけどその言葉を聞いたとき初めて高校からの付き合いの相手が自分のことを分かってくれたと感じた。これまで色んな人に沢山言われてきた自分のいいところを表す言葉よりも、何倍も嬉しいと感じた。
誰しも自分のいい面じゃなくてその裏にある他人には言えない本音が沢山あって、その沢山を調整しながら人と関わっている。
だから、正直な人や真面目な人であればあるほど心の中に抱えるギャップに苦しくなったり、罪悪感を抱いたりしてしまうのだと思う。
そして、自分もそういう面があった。
だから、「自分はいい人でない。そうでなくていい。」という言葉は、誰かを傷つけるようなことを全て肯定するという意味ではなくて、無理して相手を気遣ったり、自分を繕ったりしなくていいという、自分で自分を縛っていた紐を緩めるものになった。

みんなにとって良い人なんていないよねって自分で気づかないうちに自分が好きな自分よりも誰かが好きでいてくれる自分になろうとすることに気を張りすぎてたことに気づく。皆んなそれぞれ自分の中だけで抱えてるものがあって、それでも明るく必死に生きてるんだよねとか当たり前だけど忘れがちなことを思い知らされた。
だから、もし誰かから向けられる自分へのイメージや良いとされる姿であることにきつくなっている人がいるなら、こう伝えたい。

誰かにとってのいい人でいようとしなくていいんだよ

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