Existo porque resisto

誕生日がくると真新しい私になる。
今年はひとりで船に乗り、遠い島に旅に出た。そうすることができるからだ。
まっさらな自分で、誰も私を知らない場所に身を置くことは、私にとって大きすぎる「自分」を透明にすることができる唯一の行いだ。誰も私のことを気にしない。何をしても構わない。
砂浜に身を投げ出してぼんやりと空を眺めて、大きく息を吸って吐く。身体の隅々にまで血が通い、空気の冷たさにじんじんとする感覚がわかる。自分の身体の感覚を今まさに感じていることを知覚する。身体や髪に砂がついても構わない。それが生きているということなのだから。自分の重みを感じないために外殻を抜け出して上から見下ろしていた私が、私の肉体の中にするりと戻ってくる。私が「私」にとって居心地のいい乗り物になれれば良いのだが、それがいつになるのかはわからない。

私が自分に望むのは、身軽で、柔軟で、広く遠く見渡せる目で、感覚に鋭敏で、いつでも駆け出していけること。これまでもそのような自分でありたいと思っていたが、むずかしいことだった。
もう重い荷物は全部捨ててきたから、これからはもっと素直になんでもできる。
取り繕ったりおもねったりせず、自分がこれがいいと思ったもの以外は選び取りたくないし、いやなものを受け入れることも、しょうもないことでがんじがらめになったりする必要もない。私のセーフスペースを守るために、心地良いものにくるまって、そしていつでも安心して外に出て、戻ってこられるために、それだけを考えていることができる。もう自分が何を求めているのかがわかったから、自分のために、を以前より歪んでいない見方で取り戻すことができる。へんてこでも転がって生きていく。私の目は澄んで、どこまでも見晴かすことができる。自分に何が大切かもきちんとわかっている。傷付いた時のレメディもある。自分の場所にいることができる。未来をよりよいものにできると想像することができる。息もできる。もう大丈夫。

私の輪郭はより濃く、はっきりとした。
以前は自らのことが何よりもわからなかった。ただ存在しているだけで否定と拒絶に曝される中で、どうやって立っていればいいかわからなかった。呆然と流されていく自分を上から眺めて、はたしてこれがわたしなのか、今触れているものや見ているものはほんとうに自分が感じているものなのかさえ判然としなかった。自分のことを他人のように思って興味が持てず、一日一日がただ過ぎていった。あんたは病気だといわれた。私もそうなのだろうと思った。
私を私のままで受け入れて、認めてくれる人たちが私にはいる。変わらず独りで佇んでいることもできる。そんな私ではだめだ、ではなくて、そんな私でいい、そういうあり方だからいいと朗らかに笑ってくれる。あなたほど世界のあり方に形を均さず、純粋に生きている人もいないと笑う。

私は私の輪郭を取り戻していく。あやふやで茫漠としていて、しかし目だけは野生の手負いの獣のように爛々と光っていて、ぼたぼたと血を流している、そんな私も好きだったが、もうじき冬は終わろうとしているから、草木の芽生えに目を細めてのそのそと動き出す熊になってもいい頃だろう。
けれどもそんな自分がたしかに存在していたことも、忘れたくないと思った。忘れないために、赦さないために、自分に刻みつけた。もうその狼も、鎖を噛みちぎって、とっとと自分を縛り付けるものとはおさらばすることができる。
抵抗するために生きてきた。これからもそうだろう。

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