聴いてほしい歌があるんだ

「あなたの歌、作ってん」と中川が言った。
「……私の歌?」私は中川が適当に淹れたインスタントコーヒーを啜る合間に返す。

中川はまったく売れていないシンガーソングライターで、子どもがそのまま背丈だけ伸びたような男だ。面白い人間だが、絶望的に自分とその世界のことにしか興味がなく、それ以外何も見えていない。私の存在は『像としては』見えているが、そこからは完全にはみ出している。

そもそも中川と出会ったのも事故みたいなもので、私が地獄みたいな人 (『欠陥』と書いてあるスウェットで現れたので推して知るべしだ) と二人で飲む羽目になってしまったときに喫煙所に逃げ込んだら、そこにグレーのスウェットで五本指ソックスで煙草入れはけろけろけろっぴの巾着で無精ヒゲで髪もボサボサの寝起きか? みたいな中川が入ってきて、人懐こく話しかけてきたのだ。細かい内容は覚えていないが、中川のやわらかい空気で一気に空気も和らぎ、私がぽろりと「もう帰りたいよー」と零してしまった。
しばらく話したのち、中川は「それじゃあ、僕まだ話したいから一緒に飲みません? 連れをこれから送って僕も一人なんですよ、もっと飲みたいのに」と言い、それならばと、私がその『欠陥の人』と駅で別れた後に合流したのである。

中川と私はドンキホーテに寄り、帰り道で飲む酒を確保した。中川が「僕、魚粉と韓国海苔とチョコパイを探したいんです」と言うので、その取り合わせに疑問を覚え、「魚粉と韓国海苔?」と尋ねると、「僕、伊集院光のラジオ聴いてるんですけど、伊集院光がドンキでよく魚粉と韓国海苔買うらしいんですよ。美味いらしくて」と答えた。
「韓国海苔はわかるけど、魚粉は何に使うの?」
「ラーメンとかにちょい足しするらしくて」
「魚粉ってどこの棚にあるんだろう」
「うーん。でもここらへん袋ラーメンの棚だし、そろそろあるんじゃないかなあ」
魚粉は無かった。韓国海苔も、じゃあいいや、と中川は諦め、大容量のチョコパイを二袋抱えて会計に向かった。

中川は三鷹に住んでいる。
中川は道中酒を飲みながら、ひたすら話す。ひたすらというのは、間断なく、絶え間なく、休みなくだ。
ラジオの話や、自分のこと、お笑いのこと。私のことを特段何か尋ねることはなく、自分がすごいと思ったこと、好きなこと、不思議に思うこと、を、よくそんなに舌が回るなと思うくらい、ノンストップで話す。私は話す内容を考える必要はなく、聞いているだけでよいので楽だなと思っていたが、中川は多分何も考えておらず、自分の思考の回転するままに、脳が口に直結しているのだ。

中川には悪意がない。本音と建前がわからない。自分を取り繕ったり、格好付けたり、よく見せようとしたり、空気を読んだり、そういうことすら思いつかない。だからダサい。思ったことはなんの衒いもなく全部言うし、ありのままの自分で、全力の気持ちで人にぶつかって、ぶつけて、玉砕して、でも折れない。絶対に自分を見てくれる、届けられると信じているのだ。人間は本来優しくて、ちゃんと人の話を聞くものだと当然のごとく信じているのだ。無邪気で、不器用だし、馬鹿で阿呆だ。上手いやり方を知らないから伝えるためにただ歌うことしかできない。その声は、届かない。なのに、諦めない。

人は、そんな彼の様子を見て、自分の卑小さに気付く。そして、彼を異端の者として攻撃する。彼を認めたら自分たちを否定せざるを得ないからだ。おまえは頭がおかしい。普通じゃない。変だ。誰もおまえを認めない。
中川は何も気付いていない。世界にはたまたまマジョリティとマイノリティがいて、自分もたまたまマイノリティ側に回ってしまっただけなんだ、それは必然で、誰にも罪はない、と思っている。

なぜ誰も中川に本当のことを言わないのだろう。中川にだけは、中川にだけは世界は美しい、汚い場所ではないと信じていてほしい、そのまま生きていてほしいと思うのかもしれない。彼がたとえ攻撃されることがあろうと、彼が信じる限り、世界は変わらず美しいままなのだ。おまえだけは信じていてくれ。おまえだけは変わらないでいてくれと。おまえだけは世界の形に自分を合わせず、自分の進みたいように自由に生きてくれと、自分の果たせなかった夢を託しているのだ。優しさは残酷だ。おまえは間違ってないよ、と彼らは言うだけなのだ。

誰も彼を救わない。彼は深い穴の底にいて、上から石を投げ続けられていて、孤独を抱えているのに、誰も教えないし、引き上げない。
中川は美しい世界を信じ続けながら、穴の底から外の世界に向かって、今も歌い続けている。

「歌、聴いてくれる?」
「それって私が聴かなかったら永遠に誰も聴くことがなくなるってこと?」
「あなたに向けた歌やからな。でももしかしたらアルバムにこっそり入れるかもしれん」
「じゃあアルバムに入れない代わりに私に聴かせて」
「それは約束できひん」
「なんで私の歌なんか作るのよ」
中川は笑った。
「聴けばわかるって」

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