9月4日

私は元来強欲である。その最たるところが食欲であって、昨日お風呂場で、結局私はどう生きたいのかなと思っているときに、湧いて出てきた答えが「おいしいごはんが食べたい」ということだった。

「おいしく食べる」のはものすごく難しい。特に一人暮らしを始めて、胃腸の調子が悪くなってから、私はおいしく食べることが難しくなってしまった。基本的に便秘気味で「空腹を感じる」ということがない。その一方で、食べることは大好き、食べて幸せになってきた今までの記憶が体内にインプットされているので、空腹以外の方法で食欲が湧いてきてしまう。リラックスしたいな、とか、家族で食べたあれまた食べたいな、食べたら落ち着くかな、とかそういう気持ち。
ただ、空腹以外の方法で湧いた食欲では、食べ物をおいしく食べるために頭を使う必要が出てくる。これはだれだれと昔食べた食べ物であるとか、土井善晴のレシピだからおいしいだろうとか、スリランカのアーユルヴェーダに基づく健康的な食事だから身体も喜ぶだろうとかそういう盛り上げが必要だだ。もしくはインスタグラムなどでいかにも美味しそうに撮られた写真を見て、消費的なスイッチを思い切り入れるなど。。

ただ、これは結構無理がある。口の中ではおいしいような気がしていても、食べ終わった後にどっと疲れが生じることが珍しくない。膨満感、疲労感、倦怠感……ひどい時は胃酸過多のようになって、もっと他の食べ物で無理に蓋をしようとすることもある。満足感なんてあったものじゃない。どんな高級料理でも、珍しい食材を使っても、これでは「おいしく食べられない」。

これが一年間くらい続いて、「私はおいしく食べられてないな」ということにようやく気付いた。そしてそのことが、私の転職願望に結びついていることにも気づいた。デスクワークって何よりお腹すかなくないですか?
脳みそはへとへとに疲れているから、甘いものやしょっぱいものが欲しくはなるけれど、おなかすいたー!!というあの気持ちはもう久しく味わっていない気がする。
私は身体を動かすのが好きで、小さいころからバレエをしてきたし、中学はバレーボール部、何かにつけて筋トレや散歩、時間があるときはランニングなどもしたがる。でも大体それらへの愛は、「うんと動いたあとのごはんのおいしさ」と分かちがたく結びついている。

私は運動と一緒でなにかを夢中で頑張ったり、仕事をこなすことも嫌いではないのだ。動いている自分の身体が好きだし、気持ちがいいと思う。だからデスクワークはやっぱり「おいしくない」。

飲食店(スリランカカレー屋)で手伝いを始めたのは、強欲の最たるところであるが、身体は動き働きつつ、大好きな食べ物の周りにいることで気分を高まり、(私はこの店の料理が大好きなので、お客さんに料理を運びながら本気で「いいなー!!!おいしく食べてくれ!!」と思っている)そしてそういう給仕を経て疲れと食事への気持ちが頂点に達するころに、まかないが食べられるというシンプルな仕組みに惹かれるからだ。
なんとも低レベルな志望動機だと思う反面、食べるために働き、働くと腹が減り、働くことで空腹を満たすことが出来るというのは、本当に矛盾するところが何一つなく、まっすぐなのだ。これくらいシンプルに生きられたら、きっと摂食障害はなくなると思う。このシンプルな仕組みに対して、ビジネスや経済状況が介在して、屈折し、変なところにしわ寄せがくる。
人によると思うのだが、私の身体はおそらくデスクワークで空腹になる身体ではない。その割に食べるのが好きである、そのバランスが悪いのだと思う。デスクワークでも食べるのに全く興味のない人ならば問題はないのだが、料理をつくるのが好きで、食が好きな人間が、空腹になれない仕事をして幸せなわけがない。

とはいえ、私は強欲なので、今の生活を続けながら、知識とお金を積み重ねて、いつかはっきりと方向が見定まった瞬間までじっと待ちたいと思っている。それまでは引き算を覚えるべきで、空腹がなくてご飯がおいしくないのなら、空腹がくるまで待てばいいじゃないか、ということになるのだった。と言うわけで、鍼の先生からも身体の調子をよくしたいなら、断食しよう、と言われてしまったので、プチ断食が始まります。嫌だな~と思う反面、ちょっと楽しみでもある。すっごくごはんがおいしく食べられるようになるのではないかと思うからだ。

なぜか私のバイブルなのに、本棚をひっくり返しても見つからない本、多分実家にある本で、武田泰淳「もの食う女」という短編がある。
そこに出てくる貧乏なカフェーの女給(もちろん、のちの妻武田百合子がモデル)は、その貧乏さ故か、食に対する禁忌・欲求の思いがとても強い。
手に入らないものを、ようやく手に入れたとき、たとえそれが傍からみたらどんなに大したことないものだとしても、その人の世界はみちみちて幸せである。彼女がカフェーで働く途中、たまに小瓶にいっぱいつまったドーナツをひとつつまんで、口にほおばる瞬間がある。それは彼女にとって、毎日の働きのちょっとしたご褒美で、その描写はなににも代えがたく快楽に満ちている。
そしてそれは、とっくに食に関しては飽和状態にある主人公の「私」には決して味わうことの出来ない世界なのだ。そして残念なことに、主人公の私が求める「性」の快楽に関しては、女には届かない。女の胸に接吻しても、快楽を「食」に満たした女には何一つ響かないのだ。
飽和することは飽き足りることで、すると人はすぐに次の快楽を求める。主人公の「私」と女給の間には、そういった飽和状態に大きな溝があり、食と性の隔たりがあり、「ともに快楽を味わう」というレベルに達していない。。。とか、いろいろ考えるに面白い小説だが、私が書きたいのはこういうどうでもいい考察ではなくて、ともかくドーナツ一つに満ちる彼女の世界、詰め込むだけじゃ手に入らない世界にずっと憧れている、ということだ。赤瀬川原平の『少年と空腹』に出てくる世界もまた、これと同じで、貧乏で手に入らない、切羽つまっているからこそ輝く食の世界だと思う。

だから私は今日からおいしく満ちていくための引き算をしようと思うし、これからの生活もそういう差し引きと道筋を立てていきたいと思っている。そしてこういう考え方が、「おいしい料理」につながっていくと信じて考察を重ねたい。

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