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憧れ

昔からよくある、冒険物語の主人公が道に迷い、疲れ、途方に暮れたときに不意に現れる、あたたかい光を灯した赤い屋根の木の家に住むおばあさん、彼女は主人公をたらふく食べさせ疲労を癒したあとで、何か主人公をハッピーエンドに向かわすような啓示をくれる。
わたしは、そんなおばあさんのような人に憧れていた。自分が主人公なのではない。あくまで主人公が前に進むための手助けをする人にすぎないのだが、ある主人公の物語の傍で、なぜこんな僻地にたった一人で住むことになったのか、ぽつりとつぶやいた真理を解き明かす言葉、何者なのかもわからない。でも彼女がいなければ、物語は終わりを迎えることができず、作者も読者も途方に暮れるばかりだ。

小説のようなものを書くようになってから考えると、そんな突如現れる存在は都合が良くて、この物語どうやって解決に向かわせようかな〜と思った作者がまさに自らの救い主として彼女を作ったのではなどと、意地悪く考えることもできる。
ただ、どれがどの作品であるのか思い出せもしないわたしに残ったこの「おばあさん」的存在は、そんな都合の良い存在ではなく、物語を無理やり推し進めるために捻り出された必殺技とは感じられず、物語の傍にいる人、たった一瞬の役目、でも決定的な、その役目をこなすために主張も何もせずひっそりと淡々と生きてきた存在なのだ。

飲食の業界に憧れ始めてから、わたしはどこかそんな存在を思い出すようになった。
料理する、食べる、という営みには、昔から脈々と続いてきた伝統やレシピがある。安心して食べてもらうためには、そうした型から大きく外れることは、ほとんどの場合許されない。
ふわふわ卵だろうが、切ってとろける式の卵だろうが、卵がご飯の上に載っているものをオムライスと認識するように、認識には枠組みがある。
どんなに強い気持ちを込めて、材料の選定や作り方に工夫を施しても、オムライスはオムライスなのだ。作る人の工夫も、食べた者の美味しさの価値観も、目には簡単には見えない。それが、尊い。

何ができるか、どんなに新しいものを生み出せるか、自分が自分を主張しなくても、誰かの人生にとってのたった一瞬の役目を果たすための生き方をしたい。目立ちたいとか認められたいとかではないこと、誰かの目を気にせずに、ただただこういう存在でありたい、そのために今これをしたいと思えたことは、これが実は、初めてなのかもしれない。

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