見出し画像

陰キャな娘

今週末は娘と二人きりで土日を過ごしている。

とはいってもどこかへ出かけたりといった健康的な過ごし方ではない。

娘はどこへも出かけたがらず、ただひたすら自分の世界に籠って絵を書いたり、読み物をしたり、ゲームをしたり、Youtubeを見たりして過ごすのが大好きなのだ。

好きなことなら起きている間まったく休憩を取らずぶっ通しで続けることができるその没頭力は度し難い限りで、子どもの頃に母親から「凝り性」と言われた私も舌を巻くほどだ。

娘と会うときは、ホテルだとチェックイン・チェックアウトの時間制約があるので、AirB&Bで金曜日から月曜日まで部屋を借りる。そして土曜日の朝から日曜日の夕刻まで、チェックアウトの時間を気にすることなく思う存分部屋にいられるようにしておく。

お互いが干渉せず、ひたすら好きなことに時間を使って終わるだけなんだけど、どうもこういう距離感がお互い心地よいみたいだ。

私もつい仕事をしてしまったりして、これではいかんと娘と一緒に何かをしようとしたこともあった。

けれど、娘からしたらそれはむしろ鬱陶しいようで、外に連れ出してもまったく楽しそうにしないのでそのうちやめてしまった。

無理やり外に連れ出して新しい体験を共有することも大事とは思うものの、本人もそれを希望していないし、結局のところ私自身もそういうことをするのが億劫な性格なので、今はなるようになるだろうと放任している。

こういう過ごし方を月に一回、もう何年も続けていて、でももしかしたら、やはり私が娘をそういう風にしてしまったのかもしれないと、時々自責の念に駆られる。

自らのことを「陰キャ」と呼び、内に籠る娘を見ていると、やはり親として時折無性に心配になってしまう。

先日も心配なあまり、一体娘は何をどう感じているのかを根掘り葉掘りと問い正したことがあった。

以下がその内容。

コロナなのに、大人は平気で外に出て、感染対策をするつもりもない。
環境破壊が進んでいるのに、大人は何も対策をしようとしない。
環境破壊も止まらないし、どうせ私らの世代は生き残れない。
先がないとわかっているのに、どうして頑張らないといけないのか。
楽して生きたいけど98%失敗するから、失敗を恐れて社会で生きていく。
人が怖い。何を考えているのかわからない。
相手の機嫌をとって生きることしかできない。
怒る人はいやだ。傲慢さがない社会がいい。
人に媚びなくても生きられる世界がくるといい。
思ったことはすぐに口に出してなんでも言える社会がいい。
人とコミュニケーションをとることに楽しさを感じない。
人と話す暇があったら自分の好きなことをしていたい。
心の中にはママとパパと推しがいる。
推しさえいれば生きていける。
ただ推しを愛することを生きがいにしている。


娘の内面に広がるディストピアのような世界観に、私は動揺を隠しながらもパニックになり、娘の母にも相談したりしたけど、「単なる中二病じゃない?」という。
中二病? まだ小学生なのに?

でも、改めて考え直すと、そこには、娘なりの理想や、今の社会への批判眼や、異常な社会の中で生きづらさを感じる健全で繊細な感覚がしっかりと芽生えているんじゃないかとも思えるようになってきた。

むしろ娘の言う通り、この世の中が異常だとも言える。そんな異常な社会で生きられる人こそ異常者かも知れず、真っ直ぐに生きたい人ほど生きづらさを感じるものなのかもしれない。

子どもたちがディストピアしか描けないような社会は、やはり何かが間違っているんだと思う。

娘は繊細で社会性に乏しく、おそらくこの先人間関係で苦労することになるだろう。
残念ながら、内面が私に似てしまったのだ。

だから人生でつまづくところは私と一緒かもしれないなとも思っている。
もしかしたら今自分が磨いている技術が、将来のこの子のためになるかもしれない。

そんな思いをかすかに持ちながら、娘の行く末を案じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?