「そういうことにしたい」勢力の話

――いまの野党たちは、「自分たちの政権奪還」のことしか頭にない。だから、どんなムチャな論理でもこしらえあげて、「与党への攻撃」をいちばんに考えて行動している。そのときに、国民のことなんか完全にムシしているのだ。
 それを下支えしているのが、マスコミだ。かれらは、偏向報道しかしない。「反アベ」につながる事柄はたくさん報道しまくるが、それ以外のことはいっさい報道しない。それは、かれら自身も野党信者だからである。結果的に、「国益」を損なうことになりかねない。
 いちばんタチが悪いのは、それに追従する雑多な「民衆たち」だ。かれらは、深くはものごとを考えていないにも拘らず、ただ「多数派」という流れに乗るだけである。それは究極、そっちのほうが「楽しいから」「刺激的だから」というアホみたいな理屈に支えられていることが多い。いうなれば、「愚民」という言葉がピッタリだろう。そういう人らの安易な「世論」に誘導されていては、「国益」はどんどん損なわれてしまう。
 必要なのは、圧倒的なリーダーシップでこの国を引っ張っていける人材だ。彼は、ほんのちょっとの批判などにはビクともせずに、自分の信条にもとづいて、この国を良い方向に導いてくれる。そういう強い為政者が現れれば、トランプや習近平などとも対等にわたりあえる「強い国」が実現するだろう。――


「こういうことにしたい」ひとって、いまの社会だとたくさんいそうだ。
 もう、いちいちツッコむのもめんどくさいが、いちおうやってみようか。

 かれらの言う「国」には、ぜんぜん「なかみ」がないっていうのが俺の考えだ。かれらは、「字面」とか「地図」の上でしか「国」というものを考えないらしい。そこに、たくさんの国民が住んでいて、苦しんでいるひともたくさんいるという事実には、あまり向き合いたくないようだ。だから、ちょっとぐらいひとを犠牲にしてでも、「強い国」という「仮面」をゲットできさえすればそれで満足するらしい。
 

 それで、だれが満足するんだろう?
 いちばんに満足しそうなのは、そういう国になったときの「為政者」だろう。とにかく自分は圧倒的な「権力」を手に入れたのだ、という自負に酔いしれることができそうだ。
 そして、そういう「国」への「支持」を表明していた「支持者」たちも、満足感を得られるのかもしれない。「正しいのはわれわれだったのだ!」とか言って悦に入ってそうだ。「ほーら、やっぱりおまえらは間違ってた!」という声も聞こえてきそうだ。


 でもたぶん、そこで「まちがってる」とされたひとたちは、そこにもかしこにもたくさんいると思える。なんなら、隣の家にも平然と住んでるだろう。そして、そういうひとたちはたぶん、「まちがってる」と断定はできない思想をかかえている。こまかい考え方のちがいはあるにせよ、かれらは「国民が傷つけられない世の中」になればいい、と漠然と思っていると言えそうだ。でも、結果的には「多少は国民を犠牲にする」という発想のほうが正しかった、と認められた社会のなかでは、かれらには居場所はない。

 かれらは「自分たちの考え」を徹底的に胸の中にしまいこんで、おとなしく生きていくことを余儀なくされる。かれらが住む社会は、もし、いまの政府にちょっとでも「反論」するようなことがあれば、投獄されるような世の中だろうからだ。

 そっちの社会のほうが「いい」って、心から思ってるヤツって、ほんとにいるんだろうか?

 でも、「芸能人は声を上げるな!」とか、「ほんのちょっとの権力者の恣意にいちいち目くじら立てるな!」とかほざいてるヤツは、自分たちが目指してる社会が最終的にそういう様相を呈す、ということをちょっとでも想像してるんだろうか?
「そんなのはフィクションの話だ」とか「おおげさすぎだよ、バカ」などとほざくヤツは、いままでの実際の社会で、どれだけ「フィクション」のような悲劇が起こってきたのかをもう一度考え直したほうがいいだろう。

 ユダヤ人がどれだけ殺されたか、スターリンがどれだけひとを殺してきたか、原爆でいったい何人のひとが死んだのか……。そういう事態を呼んだ最初の「権力者の恣意」にたいしては、みんなそれなりに「寛容」だったにちがいない。「目くじら立てるな」とか、「強いリーダーシップが必要だ」とか、「反論するヤツは捕まえちまえ」という暴論だってたくさん聞かれたんだろう。
 でも、最初の「1歩」は、いつだってそういうささいなものだと俺には思える。

 そういう社会と、いまの日本社会をいっさいつなげて考えない、という姿勢はやっぱり、俺には「怠慢」だとしか思えないのだが……

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