「国」とは「ひと」である

 もし自民党の政治がおわったとして、次に政権を担うひとはどんなスピーチをするだろうと思って、書いてみた。ただ、なんか途中から虚しくなっている自分もいるけれども……


―――「悪夢」というのなら、それは間違いなく、いままでの政権にあてられる言葉でしょう。それは、「国民にとっての悪夢」という意味です。かれらは、徹頭徹尾、「自分たちのこと」しか考えていませんでした。
 自分たちの政権を維持するためには、国民をないがしろにしてもよい。かれらにあったのは、そういった確信でしょう。いやむしろ、かれらにはそれしかなかったのです。かれらが目指した「強い国」「美しい国」というありもしない「国」は、あまたの国民の犠牲のもとで、一部の強い人間たちが得をするような「国」だったのですから。
 だから、自分の不正は見逃し、自分の利益は法をねじ曲げてでも叶えようとする。国有地は不正に値下げをして売り払う、お友達を優遇して大学を作らせる、税金を平然と使って自分の支持者をもてなす。豪雨に苦しむ国民を無視して酒宴をひらく、ウイルスに苦しむ国民も無視し、補償はしない、学費も出さない、一方自分は「わたしの収入はいっさい減らない」と開き直りながら、おうちで優雅にお茶をのむ。それらの姿勢を、いっさい反省することもない。あげくには、それを「よし」とする国民の声を過大にひけらかす。最終的には、自分自身の不正を覆い隠すために、検察人事にまで介入し、言いなりにさせようとした。
 それがかれらの命取りになりました。もう、かれらの圧政に苦しむ必要はありません。悪夢は終わったのです。


 これからは、国民のための政治を取り戻そうではありませんか。わたしたちは、徹頭徹尾、あなたがたのことだけを考えます。あなたがたこそが、国政にともなう利益を享受する主体なのです。つまり、主権は国民にあるのです。わたしたちは、あなたがたに決して不利益を与えないと誓います。しかし、わたしたちも人間である以上、「自分がかわいく」思えてしまうときもあるかもしれません。そのときは、どうぞ、容赦なくわたしたちを批判してください。「自分は苦しんでいる」「あの人が困っている」、そういう声を、たくさん届けてください。わたしたちは、その声に真摯に向き合います。
 しかしそれでも、どうしても、わたしたちのやり方に納得がいかない場合もあるかもしれません。そのときは、どうぞ、選挙に行き、ほかの候補者に投票してください。わたしたちは、その結果を、真摯に受け入れます。


 憲法には、国民の「自由」及び「権利」は、「国民の不断の努力」によって保持しなければいけない、と定めてあります。これはけっして、国民は「努力」によって「国」に貢献しなければいけない、などということではありません。むしろ、真逆です。わたしたちが「国」とよばれるような「権力」をもつにいたった場合に、それをつねに「監視」して、自分たちが虐げられはしないか、意見を押しつぶされはしないかと目を光らせてください、ということなのです。わたしたちが、「自分のこと」ばかりを考えて、国民をないがしろにしていないか、「弱い者いじめ」をしていないか、つねに厳しく見張っていてください。そして、もし自分自身が暮らしに満足していたとしても、となりのあの人は苦しんでいないか、遠くに住むあの人は困っていないか、ということをつねに考えてください。それをぜひ、わたしたちに教えてください。わたしたちは、いつでもそれに対する解決策を考えています。

 「国」とは、「ひと」のことです。

 その国に住む「ひと」のことを無視していては、どんな国家も繁栄はありません。もし見た目の「国」が栄えていたとしても、そこに住むひとびとが暗い顔をしていたら、それは真の繁栄とは言えないのです。わたしたちは、国民を苦しめることによって、どんな利益も得ようとはいたしません。
 とはいえ、いまのこの国には、さまざまな問題が山積みになっていることは事実です。それは、一朝一夕には解決できないことかもしれません。しかし、その解決への第一歩は、まず「考える」ことです。これこそが、人類が諦めてはいけないことなのです。わたしたちも、必死になって考えます。あなたがたも、考えることをやめないでください。わたしたちのような「権力者」に、「考える」ことを任せてしまうと、いつのまにかたくさんのひとが傷つけられる事態に陥ってしまうかもしれないのです。どうぞ、わたしたちといっしょに考えてください。大いに議論しましょう。なにごとにも、一つに決められる「正解」はないかもしれない。しかし、極力その「正解」に近づくことは、われわれ人類にも許されていると、わたしは信じています。

 わたしには夢があります。

 いつの日か、この国にうまれたひとたちみんなが、「うまれてきてよかった」、「生きていてよかった」と思えるような日が来ることを、夢見ています。それはもちろん、いまの世の中では「きれいごと」でしょう。「今すぐにでも死んでしまいたい」「生きる希望がない」と思っているひとがたくさんいることを、わたしは知っています。わたしもかつてはそうだったからです。
 しかし、今までの世の中には、あまりにも「救い」がなさすぎたのです。ひとびとの勝手な思い込みによる「よさ」「悪さ」が強調されすぎていたとわたしには思えるのです。ひとたび「悪い」「不幸だ」と決めつけられた人たちに、救いの道がとざされてしまっていたのではないか。わたしがこれから目指す世の中は、ひとをそういう勝手な尺度で計るような社会ではありません。「みなが尊重される」世の中を目指したいのです。


「しあわせ」ということばを、わたしはあえて使おうとは思いません。それは、ひとそれぞれ違うものです。そして、それはなによりも「実感」にささえられているものですから、わたしはだれかを「しあわせに」できるなんて傲慢なことは、いっさい考えていません。ただ、わたしにできるのは、だれかを「尊重する」ことです。べつに、いっしょになって楽しく笑っていなくてもいいし、同じ意見をもっていなくてもいいのです。しかし、「この世にうまれた」ということ、「同じ時代を生きている」という点で、すべてのひとはおたがいを「尊重」しなくちゃいけないんじゃないか、とわたしは思っています。

「価値」ということばも、わたしは使おうとは思いません。それは、人間に対して使うようなことばではないと思っていますから。しかし、人が人としてただ「そこに存在していること」は、疑いようもない真実です。そして、かれがもし「傷つけられた」としたら、「痛み」を感じるというのも、間違いのない事実でしょう。だとしたら、その「痛み」をわたしは誰かに感じさせたくはないと思う。そしてできれば、それを取り除いてあげたいと思うのです。
 もちろんそれは、わたしひとりの力ではとてもできないでしょう。ぜひ、みなさんの力をお貸しいただきたいと思うのです。みなでいっしょに「よい国」を、「みんなが暮らしやすい国」を作っていこうではありませんか。

 しかし、「国」ということばを独立して使うことは、わたしはあまりやりたくない。

 何度も言いますが、「国」とは「ひと」のことなのです。―――


 ちょっと大げさすぎたかもしれない……笑

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