美しい国、ニッポン?

 最近の世の中では、どうもアベ政権をちょこっと批判しただけで、「反日」とかいうレッテルを貼られたりするようだ。
 そこでいう、「ニッポン」って、いったいなんなんだろう?


「ニッポンがキラい」っていう意見についてちょっと考えてみる。
 まぁ、梅雨はじめじめしっぱなしだし、夏はめちゃくちゃ蒸し暑いし、台風も猛威をふるうし、かと言って冬は冬でそれなりに寒いし、で、春は花粉がえげつないしって感じで、意外と住みづらいという意見ももちうるだろう。地震も頻発するし、津波だっておそろしいしって話もしだすと、とても「住みよい」だなんて言えやしないってことになってきそうだ。
 でも一方で、意外と春とか秋は過ごしやすいし、桜はキレイだし、紅葉も美しいし、雪化粧をした名勝地なんてたくさんあるし、あとは、お米もうまいし煎茶もうまい、果物だってなるし、和牛の旨味はまた格別だ、なんて話をしはじめると、一気に「ニッポンがすき」だという話になってきそうだ。

 ただ、「反日」っていうことばを使うひとは、どうもそういうことはもはや一切考慮してない気がする。かれらが擁護したいのは、「ニッポン」とか「お国」とかいう「ことばそのもの」なんじゃないかしら。つまり、何も「なかみ」のないものを、ただ「すきだ」とか「愛してる」って言いたいんじゃなかろうか。
 そして、いまその「ニッポン」の「頂点」にいるのが、某首相だから、かれの人格ごと「愛する」のは当然だ、とかいうことまで言ってきそうなもんだ。おえー、吐き気がする。

 さて、じゃあその某首相がどういうことを言ってるかというと、この国はとにもかくにも「美しい」ということにしたがっているようだ。では、そのなかみはどんなもんか。彼がどっかのインタビューで言ってたのは、

 東日本大震災の際、人命救助に尽力したり、福島原発で作業をしている途中で亡くなった人がいる。かれらは「損得」を超えて、まさに「お国のために」犠牲になったわけだ。そういう人たちこそ、「美しい」ではないか。

という趣旨のことだった。

 さて、ほんとうにそうなんだろうか? 首相の論理を突き詰めていくと、「お国のために」貢献する人は「美しく」て、「自分自身のためだけに」行動する人は、「美しくない」って話になる。


 でも実は多くの人は、突き詰めると「自分自身のために」生きていると言ってさしつかえないと思われる。それは、人間が「動物」の一種で、「自己保存」という本能をもつ以上、仕方がないことだ。

 ただまぁ問題は、自分自身のため「だけ」に、という文言だろうか。でも、そもそもそんなことできるのかな。だいたい人は「仕事」をし始めると、「他のひとのため」に行動しなきゃいけなくなる。そうじゃないと、お給金をもらえないからだ。「仕事」をしていないという人でも、自分が「食糧」を摂取しなきゃいけないというのは当然のことで、そのためには「お金」を使わなきゃいけない。それを「対価」として支払った時点で、それはそのひとの「役に立つ」ことになる。だから、「他のひとのため」になっている、と言えてしまう。つまり、べつにその当人が「だれかの役に立ちたい」という積極的な意識をもっていないとしても、結果的に「だれかのため」になってしまうもんだってことだ。


 ただ、その「自分の利益」というものを極度に重視しすぎて、他人を「害する」ひともいる、というのはたしかに事実としてある。それは「犯罪」のケースが特にそうだし、「自己中」度合いが強すぎて、周りにメイワクをかけてしまう、というひともそうだろう。そして、そのことに気づいても「反省」しない、という場合もあるだろう。こういうひとたちは周りから「責められる」可能性が高い、という話はたしかに理解できる。

 ただ、アベ首相は、この「責められる」ひとの範囲を、まさに「恣意的に」広げようとしてはいないか、というのが俺の疑問としてあるのだ。

 彼がやろうとしているのは、「お国」というわけのわからないものの繁栄に「貢献」しているひとを、格別に褒めたたえよう、ということだと思える。そして、できればそれは「命をかけて」やることが望ましいらしい。そうしてひとが亡くなったりすると、そのひとたちこそ「美しい」のだ、と言って、彼自身は悦に入るようだ。


「なんで?」と、俺は純粋に聞きたい。
 

 そもそも、そんなふうにして亡くなったひとたちは、「お国のために」貢献した、などという意識はあったんだろうか? 
 俺はやっぱり、ないと思う。
 彼らが自分の命を賭してまでその職務にあたったのは、それが何よりも「自分の職務」だったからだ、というのがまずいちばんにあるだろう。つまり、そうするのが「あたりまえ」だった、ということだ(もちろん、そこで「亡くなる」ことまでが当たり前だった、とは肯じがたいが)。というか、そこで自分の職務を放棄したとすると、その場合にはほかのだれかが命を落としたり、命を危険にさらされることがかなり鮮明にイメージできたんじゃないか、と俺には思える。だから、そうならないように自分のやるべきことをやったのだ、という感覚なんじゃなかろうか。
 

 ただとにかく俺が違和感を感じるのは、そのこと自体を「美しいこと」だった、と言って誉めそやそうとするこのアホ…いや、アベ首相の言い草なのだ。というか、そんなふうにカンタンにまとめてしまう時点で、こいつは自分自身が、そうやって亡くなったひとたちの内心までをきちんと「想像」できない、ということをひけらかしてしまっていると俺は思う。
 しかも、こいつ自身はいまは「行政府の長」として、「民衆が命を落とさないように配慮する」立場にあるんじゃないか? 震災当時は政権を担当してはいなかったにしろ、今後もしまた大震災が起きたときに、だれかがその救助の過程で亡くなったりしたとして、そのときに「美しい!」なんてほざくんだとしたら、それは正気の沙汰じゃないと俺には思える。そうじゃなくて、本気でそのひとの立場に同化して共感したうえで、涙の一つぐらい流すようなひとじゃないと、俺は信用できない。その場合はおそらく、「なにも言えない」ような状態になるんじゃなかろうか。むしろ、何も言わなくてもいいだろう。そしてそいつがやるべきことは、災害がおきたときに極力被害を減らすような国づくりをすることじゃないのか。犠牲者を「美しい」とか言ってほめそやすんだとしたら、究極、なにも対策なんてしなくてもいいって話になるだろう。

 もうひとつの俺の違和感は、「お国のために」行動しないひとを、一律で「責める」論理につながっちゃうんじゃないかってことだ。
 これこそまさにいまのアベに顕著な話で、なんなら「自分に反論するひと」全員を責めようとしているように俺には思える。つまり、彼のなかではもはや「お国=自分」というほどにまで、自尊心が肥大してしまってるんじゃないかって話。
 だから、自分が何をやらかしても反省なんかしないし、そのくせにもっと真摯に国民のことを考えて行動しているひとたちを、平然とけなしたりするわけだ。というか、何よりも「自分の損得」にいちばん縛られてんのは、おまえなんじゃないか。あれ、そういう姿勢って、「美しくない」んじゃなかったっけ?

 とにかく、「国とはひとである」ってのが俺の持論だ。だから、なんら「なかみ」のない「お国」なんて概念よりも、「ひとびと」のために生きるって言ったほうがわかりやすいだろうと思える。しかも、べつに「みんなから尊敬される」とか「必要とされる」とかいう、ハデな「貢献」なんかしなくてもいいだろう。ふだんの仕事を粛々とやってるだけで、じゅうぶんなんじゃないか。かくいう俺も、ふだんは低賃金で、馬車馬のごとく働かされてるもんだ。それだけで、なにがわるいって言うのか。


 ルソーは、著作『エミール』のなかで、こんなことを言っている。

 人類を構成しているのは民衆だ。民衆でないものはごくわずかなものだから、そういうものを考慮にいれる必要はない。人間はどんな身分にあろうと同じ人間なのだ。そうだとしたら、いちばん人数の多い身分こそいちばん尊敬にあたいするのだ。
(岩波文庫 『エミール(中)』今野一雄訳)

「ごくわずかな」金持ちとか国王とかは、基本的に「民衆」の苦しみにたいする「想像力」がないってことを、もうすでにルソーはこの時代に看破している。そして、「主権」は「人民」にあるのだということを高らかに宣言したのは、このルソーである。

「権力者」たちが、自分たちの利益のために民衆をないがしろにしようとすることは、いつの時代にもあった。そして、いまのアベ内閣こそ、そういう「権力」を手中におさめようとしてんじゃないかという危惧は、俺にはすごくある。
 さて、フランスではご存知のとおり、その後「革命」がおこった。
 では、「ニッポン」ではいったいどうなんだろうか。徐々にその機運は高まりつつあると俺には思えるんだけども。

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