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【母方ルーツ#14】羽咋編⑤ イロハニホヘトチリヌルヲ…


いつもご覧頂きありがとうございます。
私の曽祖母イヨ(母-父-母)系統のルーツを遡る、羽咋編の5回目です。

可能な限りの戸籍を取得し、同姓ルーツをもつMさんとのやりとりも回を重ねるもの、双方の血縁上の関係性を明らかにできる情報は未だ得られず。
調査はこの当たりまでかと半分諦め、半分満足していたのですが、
志を共にするお仲間さんがいることで、もう少し調査してみようという熱量がうまれ、「旧土地台帳」なるものを取得することにしました。

新たな挑戦、旧土地台帳

旧土地台帳とは、
明治22年頃から昭和20年代頃までに利用された、土地の所有者等の諸情報を記録した台帳で、各地の法務局に保管されています。

現在は本籍地と住所は必ずしも一致しないことが多いですが、当時は原則として本籍地は居住地に、と定められていたとのこと。

つまり、戸籍の内容とリンクしており、運良く旧土地台帳の中に名前を見つけられれば、もう一世代遡れるかもしれません。

微かな希望を胸に、必要な書類を揃え、管轄法務局に郵送で依頼しました。


数日後、担当者から携帯に連絡が入りました。

「該当の住所はありません。地番の前の字(あざ)はわかりますか?」

あざ?
記入した滝谷、それがあざなのだと認識していたのですが、それでは無いのでしょうか?
「あざ、滝谷」です。で「1038番地」。

字滝谷1038番地??

「その後に続く字はありませんか?」
(今思うと、そう言ってたような気もする)

電話の向こうの担当者が言ってることがさっぱりわかりません。
「いえ、番地は1038千三十八です」

何度も繰り返しても埒があかず、そうですか、それではもう結構ですと、一度断念することとなりました。

諦めきれず


何がどう不適切なのか。
しかし、諦められない。

そのまま返送されてきた封筒に、何ともやるせない気持ちと、どうにも解せないという思いに悶々とする日がつづきました。

そんなある時。
とある疑問がふと脳裏に浮かんだのです。

50軒ほどの集落になぜ1000番代の地番なのか…と。

改めて現在のGoogleマップを見てみると、集落内にイロハニ…という文字が浮かんでいます。

はっ!!!

こ、これはまさかイロハニホヘトチリヌルヲが字(あざ)なのか?!

1038番地と思っていたけど、これは千(せん)ではなく、カタカナの(チ)!!

これに気がついた瞬間、まさに飛び上がるほどの感動を覚えました。
興奮冷めやらぬうちに再度旧土地台帳の請求を送付しました。

すると、今度はしっかり資料が送られてきたのです。

カッコいい!


通常、昔の地番とは現在の地番は一致しないことが多いので、この集落も同様に考えていました。
しかしこの集落は明治期から現在まで、変わらぬ地番のまま現代まで受け継がれていたのです。

そのため、十助、久松の家があった場所もわかりました。
地図で確認する限りでは二家の距離は歩いてほんの3分もかからない場所です。

やはり比較的近しい親戚関係であった可能性は高いと考えられます。

そしてもう一つ、新しい発見がありました。
Mさんのご先祖さまをもう一世代遡ることができたのです。

久松のひと世代上には「万右衛門」との名前が記載されていました。
そしてその区分は「寺領」とも書かれていました。

私たちの長濱ルーツ滝谷村は江戸時代は寺領であったことが新たにわかったのです。

この寺とは前田家からも厚く庇護された妙成寺と考えて間違い無いと思います。
滝谷集落は妙成寺の寺領として歩んできた歴史があったことが知れました。

しかしもう少し勉強しないとあれやらこれやらが繋がりません。

ここからは一家族の歴史を遡ることは一旦休止し、滝谷集落と妙成寺についてその歴史をなぞり、先祖の暮らしぶりを想像するのがよいかもしれません。

滝谷村の歴史を知りたい


石川県の図書館にレファレンス依頼と、羽咋市歴史民族資料館にメールで問い合わせをさせていただきました。

レファレンスの回答からは今ひとつ有益な情報は得られなかったものの、羽咋市歴史民族資料館の担当者さまからは、様々な参考文献、資料、写真などの提示と丁寧なお返事をいただきました。

温かなお人柄を感じられる言葉が嬉しく、担当者さまともこの後何往復ものメールのやり取りする中で、少しずつ滝谷の様子が浮かび上がってきました。

明治31年に描かれた妙成寺
昭和37年頃 滝谷集落を映した航空写真


以下、担当者さまからのメールから抜粋です。

そらさま

滝谷集落の中心に妙成寺があります。
妙成寺には、重要文化財建造物十棟あり、周囲には、塔頭(お寺)が残っております。
永仁2年(1294)滝谷の豪族柴原将監の援助を受け、この地に妙成寺を開き、その後、加賀藩主前田氏の保護を受け、なかでも3代藩主前田利常の生母寿福院(じゅふくいん)の帰依により、その菩提寺として整備されていた経緯があります。

そのため、お寺の周りに塔中(妙成寺の歴代住職が開いたお寺さん)が7軒あったとされており、現在も何件か残っております。

M31年の絵では、図の右側に寺中と書かれているのが、塔中(お寺)です。

滝谷には「中駄」という家が何件かあります。
妙成寺の住職が代わる際に、日蓮宗の本山等から新しい住職が来られるわけですが、本成寺(柴垣の日蓮宗)からこの中駄さんのお宅で休憩し、下駄を変えられ、妙成寺へ向かうための準備支度を手伝う役割を持つお家だそうです。
そういうことからも滝谷は、妙成寺を支える方々やお坊さんに関わる方、従来住まわれていた百姓などで構成されているのではないかと私個人は思っております。

ちなみに、この新しい住職が来られる(晋山式といいます)際に奴行列を組みます。
露払いが先行して、次に奴さんが踊り、新しい住職が駕籠に乗ってこられます。これらの担い手も滝谷地区の方です。
これは、住民の方へのお披露目式であり、今後よろしくお願いしますとの意味あいがあると思います。

また妙成寺の繁栄期には、位の高い方のお寺であったかもしれませんが、
明治期に入ってから神仏分離の考えが拡がり、お寺の意味あいも変化してきたと思います。
そして妙成寺には、恵まれた文化財の指定などもあり、滝谷の方や地元の方の保護などがあったおかげで、
今ある文化財が守られてきたと思っています。
昭和6年『前田家と妙成寺』の中で、明治頃と明治以後で妙成寺を保護してきた方が変わってきた様子がお名前からも推察できます。

資料館担当者さまからのお話

頂いたメールから、滝谷集落と妙成寺の雰囲気がありありと伝わってきます。
妙成寺とともにあった滝谷の歴史は想像していた以上に重厚なものでした。

内容はMさんにもシェアし、時々Mさんのブログにも一部内容がアップされました。

そしてこの後、さらに不思議なことが起こります。
新たなメンバーが加わるのです。

ついにチーム長濱結成です!!



名もなき先祖だからこそ調査が楽しい、マイファミリーヒストリー。
続きはまた次回。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。


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