◆情報も整理整頓してよく吟味して

TVのコメンテーターの方などにときどきおられるのですが、いわゆる「ぶっちゃけキャラ」や「切れキャラ」と呼ばれるジャンルでお仕事をされているタレントさんや知識人の方、実は個人的にはちょっと憧れていて、どちらかといえば好きなタイプです^^

普段、私のような一般人が、政治や社会問題、事件などに関して、言えずにもやもやしていることについて、彼らが批判覚悟で、ズバッと正直な感想を言ったり、ご自身の個人的な見解を明言される姿を見ると、溜飲も下がるというものです。

しかし…これを見ていて共感するにとどめておく分にはよいのですが、彼らの真似をしようなどと考えてはいけないな…とわが身をいましめています。

まず、TVは多かれ少なかれ、あらかじめ台本というストーリーがあり、彼らもその中でそういうキャラを演じていてるのだということ。そして、そこには当然「公共の場」という囲いがあって、最終的にはその枠の中での「ぶっちゃけ」であり「切れ」なのだということ。個人的なことを言ったとしても、最終的な責任はその番組を制作し、その出演者にオファーをしたTV局にあります。もちろん、人間としてそういうことを言ってどうか、という判断は、一人一人の視聴者がするものなので、最終的な評価は出演者個人にはね返ってくるものではあるのですが…。

要するに、好き勝手言っているようでも、それはお仕事として、大枠はコントロールされている、ということです。私たちも仕事やそのほかの公の場では、意識無意識含めて、自分なりの「台本」をもって、情報のやりとりをしていると思います。まあ、いつも成果があるとは限りませんが、かなり意識的に言葉や行動をやりとりし合って、上手くいかなければ「次はこうしよう」と反省と回復を心がけているのではないかと思います。

では個人が個人的な人間関係の中で、意見や感想、ときには感情をやりとりする場合はどうなのでしょうか。これは、なかなか難しいことだと個人的には感じています。何しろ「ぶっちゃけ」や「切れ」が嫌いじゃない(かなり好き^^;)ですから…。

これも一言でいえば最終的には「デリカシー」の問題かもしれません。相手の気持ちや立場を慮って言葉を選び、タイミングを計る。しかしこれがなかなか難しい。無意識に自然にできる人がうらやましいな、と思います。

私はずっと基本的に「話せば分かる」と思ってきたので、よかれと思う情報や感情は伝えるべきだと考えてきました。そしてそれは異なる意見をもって対峙しているときや、違う感情をもって一緒に行動しなければならないときにこそ有効だと思ってきました。しかし、それはちょっと違うのではないかと、いまさらながら思う今日この頃です^^

人が「ぶっちゃけ」たり「切れ」たりするときは、多くの場合、よくいえば相手がそれを受け止めてくれる、と信頼しているとき、悪く言えば、自分の都合に相手が合わせてほしいと思っているときです。少なくとも、私の場合はそうですね…><;

しかし、言葉は、それがいくら良心から出たものであっても、相手が受け取る準備ができていなかったり、聞きたいタイミングでない場合は、上手く伝わらないどころか、双方にとって悪影響を及ぼしてしまうものです。もっといえば、こちらが伝えたいことが、相手にとって、情報としても感情としても、まったく不必要である場合も多々ある、ということです。

これは特に家族や親しい友人など、大切な人に対したときに多く起こる残念な関係性です。そして歳をとってくると、つい、自分の限られたささやかな経験を、同じような経験をしそうな人に、「アドバイズ」したいという誘惑にかられることも多くなります。

これも、相手が「是非に」と願っている場合は別ですが、そういう場合でも、相手がどんな情報を知りたいのか、その感情的な部分も考慮に入れて、伝えないといけないなぁ…と実感しています。相手は単なる昔話や自慢話を聞くために、貴重な時間をついやしているわけではないのです。

そのためには、自分の知識や情報、経験を自分なりの引き出しに入れて、いつ、どんな風に使えば他の人のためになるのか、ときどき棚卸しながら、日ごろから整理整頓を心がけておきたいと思います。

私のように、つい語りすぎる傾向のある方は、「何を話すか」「どんな情報を出すか」ということより、「何を話さないか」「どんな情報を出さないか」ということを意識したほうがよいかもしれません。そういう傾向のある方、お互いに気を付けましょう~。



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